第7話「桜色のストール」

「あら・・・私、喋りすぎね。説教ババァなんて言わないでよ」

「そんな事言ったりしませんよ」


 フィリシアの言葉に霧雨が淡々とした声で返す。


「今有名な人も最初はみんな素人って、染みます」


 柚香の言葉に鮎葉も「染みます」と加わる。


「今に見てろよ・・・。初期作品を読んでみたくなるくらい良い作品書く小説家になってやる」


 そう言った霧雨の声はやや低く押さえられ、力強い目が机の上のパソコンに注がれていた。静かに燃える闘志をその横顔に感じて、柚香は見惚れるように彼を見つめている。


「あぁ、もう8時前だ」


 スマートフォンの画面に目を落とした霧雨が小さくそう言って立ち上がり、柚香は我に返った。


「本当だ、ごめんなさい長居しちゃいました」


 時間を確認した鮎葉も帰り支度を始める。ふと柚香が周りを見ると数人残った人達も立ち上がり次々とレジへと向かい始めていた。


「あの・・・」

「この喫茶店7時半クローズなの」


 目を白黒させる柚香に鮎葉が教えた。


「ああ、それで」


 柚香もお尻を浮かせてわずかに残った商品を鞄に戻す。


「私のお喋りが過ぎたわね、ごめんなさい」

「フィリシアさんの側にいると時間を忘れちゃいます」


 柚香よりも先に席を立った客の1人がフィリシアにかける声が聞こえる。


「そお?」

「フィリシアさんの魔法が心地よくてつい長居しちゃうんですよ」

「お喋りの魔法減らさなくちゃ」


 ちょっと悪戯げに首をすくませて応じるフィリシアに、会計前に集まった客達から楽しそうな笑い声が立った。


「いつもみたいに急かしたりしないから心配しないで、忘れ物しないようにね」


 残っていた客が少ないとはいえ同時に全員が立つと流石に会計が混む。


 日向が笑顔でてきぱきと会計処理をこなしていき、フィリシアは洗い物をしながら手を止めず皆に声をかける。客がひとりまたひとりとフィリシアに声をかけ何気ない会話をしながら会計を済ませる。その光景を柚香は眺めていた。


 レジの混雑が解消するのを待つ柚香は彼等の背から帰りを惜しむ気配を感じて共感を覚えた。


(みんなが名残惜しく思うの分かるな。私もまだ帰りたくない)


 フィリシアや日向と別れ際の言葉を交わす彼等の柔らかく暖かな空気が羨ましくもあり幸せな気がした。


 人集ひとだかりから一足先に会計を済ませた霧雨が抜け出し、顔を上げた彼の目がふいにこちらへ向いて柚香はどきりとした。


 どきりとした自分に驚きつつ霧雨から目が反らせない。自分へ向けられた彼の目が何か言いたげにしているように感じて更にどきどきするのが分かった。


(え? え? どうしよう)


 焦る柚香の方へ霧雨が歩いてくる。


 何かを期待している自分が恥ずかしい気がして柚香の目が泳ぎ、それに合わせるように何か言い掛けた霧雨の目も泳ぐ。伏し目がちに微かに頭を下げた霧雨は何も言わず通り過ぎ、柚香も小さく頭を下げただけだった。


(勘違い・・・か・・・・・・ふぅー)


「柚香さん」

「はいっ」


 声をかけてきたのは鮎葉だ。


「また会いましょうね」


 差し出す鮎葉の手を取って柚香もにっこり笑顔を返す。


「はい、よろしく」

「私は水曜と土曜はだいたいここに来てるから、またね」


 もたもたとするうちに柚香は一番最後になっていた。


「あの、今日はどうも有り難うございました。とても助かりました」


 フィリシアへ柚香はぺこりと頭を下げる。


「いいのよ、私も楽しかったわ。また来てね」

「はい、是非! それじゃあ、また」


「ちょっとまって」


 レジ前から道路側の窓を見ていた日向が柚香を呼び止める。


「バス行っちゃったわ。次は30分くらい後だから・・・・・・、私送るわよ」

「お願いできる?」

「はい」


 フィリシアと日向で話が進み柚香が慌てた。


「いえいえ、とんでもない。30分くらいなら全然待てますから大丈夫です」

「駅まで行く用事があるの、家は逆方向?」

「いえ、駅方面です」

「それなら遠慮しないで」


 窓越しに外を見ればもうすっかり暗くなっていた。


「それなら・・・すいません、よろしくお願いします」





 日向の車の助手席に収まって、ヘッドライトが浮かび上がらせる前方を見ながら柚香は鞄を抱き締めていた。もとからそれほど重くはなかった鞄だけれど、今は空っぽみたいに軽かった。


「今日はありがとう」


 日向からお礼の言葉をかけられて柚香が首を傾げる。


「何がですか? お礼を言うなら私の方ですよ」

「フィリシアさんが楽しそうだったから」


 不思議そうに柚香は日向の横顔を見つめた。


「久しぶりなのよ、フィリシアさんが人を連れてくるの。ーーーきっと、貴方を励ましたかったのね」


「えっ?」


(日向さんも魔女?)


 フィリシアがフリーマーケットでの事を知っていたとしても、日向に話す時間はなかったはず。それなのに何故「励ましたい」と思ったと分かるのだろうかと柚香は彼女を見つめた。


 少し怪訝そうな柚香の顔を見て日向が笑う。


「フリマで何かあったんでしょ?」

「どうして分かるんですか? テレパシー?」

「あはは、テレパシーかぁ」


 とても愉快そうに笑う日向はどこかフィリシアと似ていた。


「フィリシアさんは創作する人や物作りをする人を応援してる。でも、基本的にへこんでる人を見たらほっとけないたちなのよ」


(だから自分に声をかけたのか・・・)


 柚香はそう思った。


「それに」

「それに?」


 くすくすと日向が笑う。


「来たときの柚香さんは目も鼻にも泣き虫の痕跡があったから」


 柚香は今頃になって鼻を押さえる。それを見てまた日向が笑った。


「鼻、真っ赤でしたか?」

「あはは・・・。大丈夫、ほんの少しよ」

「えーっ、でも赤かったんですよね。恥ずかしいーー!」


(皆に見られてたなんて!)


 穴があったら入りたいとはこの事だ。運転をする日向は時折ちらりと柚香の顔を見て楽しそうに笑っていた。


「目も赤目の兎さんみたいだったし」

「嫌だぁーー!」


 柚香は顔を両手で隠す。


「可愛かったわよ」


 そう言う日向はなんだか少し面白がっている感じもある。


「私でも柚香さんみたいな兎さんほっとけなかったと思うな」


 鼻だけ隠したままの柚香が日向を盗み見る。


「嬉しいような・・・・・・恥ずかしいような」


 日向がくすくすと笑った。


「キッキちゃんもお母さんの話が出来て楽しそうだったし、柚香さんが来てくれて良かった。ありがとう」


 日に何度も有り難うと言われることはそうそうなくて柚香は気恥ずかしかった。


「普段は私に気を使ってかキッキちゃんはお母さんの話しないの」

「気を使って・・・ですか」

「私、キッキちゃんから見ると継母なんですよ」

「ふぅーん・・・・・・ん?」


 一瞬納得しそうになった柚香の頭が思考を巻き戻す。


(キッキちゃんのお母さんは画家で今も健在。そして、フィリシアさんの娘さん。日向さんは・・・・・・)


「今、頭の中で家系図作成中?」

「えっと・・・そうなんですけど、まだ上手く繋がりが・・・」

「パッとは理解しにくいかもしれないわね」


 赤信号で車が止まる。


「駅近くのコンビニの所で良かったわよね」

「はい」


「ウィンディスさん・・・ウィンディスさんってフィリシアさんの娘さんの事」


 少し間があって日向が話の続きを始める。


「喫茶店の道向かいにウィンディスさん夫婦は住んでたの。キッキちゃんの環境を変えないように離婚した後もパパはそのまま引っ越しはしないで、パパとお祖母ちゃんに育てられているところに私が加わった・・・訳です」


 黙って聞いていた柚香は恐る恐るといった感じで日向に質問をした。


「フィリシアさんとは・・・いい感じ、ですよね」

「そうなの。ウィンディスさん達は円満離婚だったようだし、私は喫茶店の常連客からスタッフを経てキッキちゃんのお母さんになりましたとさ」


 日向が笑顔を向ける。


「なんだかわらしべ長者みたい」

「ふふふ、そう。まるで藁しべ長者よ」


 否定しない日向。


「私ねウィンディスさんの絵が大好きで絵を見に喫茶店通いしてたのよ。そして恋に落ちて・・・・・・出会う前に離婚してたから心配しないで」


 日向は柚香の顔は見ていなかったがきっと同じ質問を今までに何度もされたのだろう。そう断りを入れた。


「好きな事が出来るって幸せね。人生好きな事だけって訳にはいかないかもしれないけど、諦めずに趣味でも何でも続けて!」


 不意に日向の目が真っ直ぐ柚香に向けられた。


「案外、人生って続けたもん勝ちって所あるから」


 車はコンビニの前に到着していた。





「ねぇ! フィル!」


 照明を落とした喫茶店の中にキッキの甲高い声が響いた。


「フィル!」

「どうしたの?」


 カウンターの裏にある階段を下りて来たフィリシアが姿を見せる。


「フィル、お母さん帰ってきたの? ママは何処!?」

「帰ってきてないわよ」

「私を驚かそうとしてるんでしょ、ママ何処に隠れてるの?」

「キッキ、落ち着いて」

「ママ! ママ!」


 2回へと上がろうとするキッキの腕を掴んでフィリシアが止める。


 目を丸くしてフィリシアがキッキを見つめた。覗き込むフィリシアの目を見たキッキは深呼吸をして自分を落ち着かせる。フィリシアがこんな目をした時には何も言ってくれない、キッキが静まるまで彼女はただ黙っている事が常だったから。


 数回深呼吸を繰り返したキッキが落ち着いた頃合いにフィリシアが聞いた。


「お母さんは帰ってないの。どうしてそう思ったの?」

「あれよ」


 フィリシアの手をほどいたキッキが何かを手にフィリシアの前に戻りそれを差し出した。


「ママのストール」

「・・・・・・あぁ、それで」


 済まなそうな表情になるフィリシアを見てキッキの顔が曇る。


「ママ・・・桜が好きだったでしょ?」


 キッキが頷く。


「下の公園の桜を見せてあげたくて・・・、一緒に見てる気になりたくてそのストールをまとって出かけたのよ」


 小さな手に握られたストールから桜の花びらが一枚、ひらりと床に落ちていった。次いで涙も一粒。


「ごめんなさい。キッキ、ごめんなさいね」


 謝るフィリシアに抱き締められたまま身じろぎもしないキッキはじっと桜の花びらに目を落としていた。


 小さな心の中で風が吹き荒れているだろう事を思ってフィリシアは胸が締め付けられる。切なさは子の方が強いだろうと思うと、隠すことを忘れていた自分の迂闊さを後悔した。


 桜色のストールが2人の胸に抱かれてただそこにあった。



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