第106話 同期の元カノがやってきた

 10月22日の月曜日。二学期が始まってから少し。新しい講義にも徐々に慣れてきたそんなある日。


「解析Ⅱがめっちゃむずいんやけど……単位落とすかも」


 部室横のラウンジで、俺たち計算機学部生の必修単位の一つである解析Ⅱがわからない事で、木橋きばしが頭を抱えていた。


「高校の微積びせきの延長で行けないか?」

「解析Ⅰの方がε-⊿イプシロンデルタ論法とか出てきて大変だったよね」


 もちろん、講義はまだ序盤も序盤だ。簡単とは言えないけど、今のところついていけない程ではない。


「はぁ。お二人さんは一般入試やったっけ……」


 木橋が肩を落としている。


「それ、どういう意味だ?」

「んーと、まず、AC入試っつうのは、高校での成績は全然加味されへんわけや」

「一芸入試みたいなものとは言ってたな。それはわかるけど」

「言い換えると、数学の成績が悪くても、他が飛び抜けてればOKちゅうわけ」


 またため息をつく木橋。


「立派なプログラミング言語作ってたのに数学苦手だったのか?」

「別に数学できんとてプログラミング言語は作れるしなー」

「そりゃそうなのかもしれないが。最初、何でもできる奴って思ってたから意外だ」

「そんなスーパーマンやないんよ、俺は」


 やっぱりため息をつく木橋。


「じゃあ、よければ今日わからなかったとこ教えようか?」

「私も、私も」

「ええんか?」

「友達が単位落とすのも寝覚め悪いだろ」

「ほんと、恩に切るわー。今度飯奢るから、ビシバシよろしうな、教官!」


 南無阿弥陀仏なむあみだぶつとわざとらしく俺たちの事を拝む木橋。それを見て、俺達は目を見合わせて、くすっと笑った。こういうちょっとおどけて見せるところもなかなか楽しいやつだ。


 ふと、コツ、コツ、とラウンジに向かってくる足音が聞こえる。誰かと思ってみると、知らない人だった。


 ミディアムショートな黒髪で、背丈はほどほど。150cm少々だろうか。吊り目で少しきつい印象をうける。三日月の髪飾りをつけているのが特徴的だ。その割に胸も割とある。ミユとは違う方向性で、可愛いというより美人という事が似合う。


「胸、見てなかった?」

「……少しだけ」

「まあ、いいけどね」

「で、あれって誰だろうな」

「同じ学部だとみないよね」


「……陽向ひなた?」


 いぶかしがっている俺達の中で、木橋だけは、そこに居るはずのないものを見たような顔をしていた後に、ラウンジの隅っこの掃除用具入れに素早く退避した。


「あのー、少々ええですやろか」


 その美人さんが、何故か俺たちに声をかけてきた。


「はい?」

「そこのByteっちゅうとこに健一けんいちがおるって聞いてきたんですけど」

「Byteは俺も連れも木橋も所属してますけど、あいつがどうかしたんですか?」


 先ほどの、陽向という言葉を考え合わせると、この人、どうも木橋の元カノっぽいのだけど。どういう要件だろう。


「ああ、自己紹介もせんですいません。私は、如月陽向きさらぎひなたいいます。その木橋の彼女なんや」

「ええと、如月さんでいいでしょうか。如月さんは、木橋の彼女さん、ですか?元カノさん、ではなくて。それと、俺は高遠竜二たかとおりゅうじ、こちらの連れは朝倉美優あさくらみゆうです」


 おそるおそる尋ねてみる。すると、


「如月でええですよ……元カノってそれ、健一が言うてたんですか!?」


 元カノ改め如月は凄い形相で俺たちを睨みつけてきた。


「え、ええ。確かにそう聞いてますけど」


 嘘を言っているようには見えなかったけど。


「健一のやつ、一方的に……ウチは未だに納得してへんっちゅうのに!」


 今度は怒り出した。どうも、木橋と如月の間で物凄い行き違いが発生しているっぽい。


「なあ、俺たちは退避した方が良くないか?」

「でも、このままだとこじれるかもしれないよ」

「それもそうか。おーい、木橋、出てこいよー」


 ラウンジの掃除用具入れに向けて声をかける。しかし、返事がない。


「元カノか彼女か知らんが、もうここに居るんだから、潔く顔出せよ」


 再度呼びかけてみると、ようやくラウンジ隅の掃除用具入れから顔を出した木橋。


「……はあ。で、陽向はどうしてこんなとこまで来たんや?」


 どんよりした感じの木橋。


「決まってるやろ?勝手に関東の大学進学決めて、それで、ウチが寂しがりやからとかいうて一方的に別れ切り出して。ウチの事好きやのうなったんやったらわかるけど、身勝手やない!?」


 如月は感情を抑えるつもりもないらしく一方的にまくしたてる。他にラウンジに人が居なくて良かった。いや、Byteの人たちは聞こえてるかもだけど。


「言うても、やっぱり、遠恋はきついやろ」

「それは、ウチが決めることやって。やってもいないのに諦めるんはちゃうやろ?」

「いやいやいや。陽向、ちょっと相手しなかっただけで、すぐ電話かけて声聞きたいとかいうし、急に会いに来るやん。そんなんで、遠恋は絶対無理やって」

「そんなん、やってみんとわからんやろ!」

「陽向は、もう少し自分がどんだけ寂しがりなんか自覚した方がええよ。別れてからも、かなりしょっちゅう話しとる気がするんやけど」

「それは、やって、別に振られたわけやないんやし」


 部外者には伺い知れない話でヒートアップする二人。そろそろ仲裁すべきか。


「ちょっと落ち着かない?二人とも。お茶でも飲みながらゆっくり話しようよ」

「俺も同意。ちょっと落ち着いて話しようぜ」


 というわけで、部室にあるティーバッグで紅茶を淹れて、部室内にあるお菓子を適当に出す。


「なんでそんな事になったんだ?あ、木橋の方からは聞いたし、如月の言い分な」


 落ち着いて、お茶を飲みはじめてから事情を聞いてみることにした。


「元々、ウチと健一は昔馴染みっちゅう話は聞いとります?」

「ああ。こないだ話してたな」

「だね」

「で、高3の時にウチから告白して付き合い始めたんです」

「付き合って1年くらいって言ってたっけ。なるほどなあ」

「健一は最初地元の大学行くはずやったんですけど、急に筑派大学つくはだいがくのAC受けるって決めて。せめて相談くらいしてくれても良かったのに」


 なるほどなあ。色々複雑らしい。


「で、木橋の言い分は?」

「悪かったと思っとるよ。AC編入生の制度知ったんが、書類提出の締め切り直前でな。相談する暇もなく、ひたすら書類書いとったんよ」

「それやって、一言くらい言ってくれても良かったやん!」

「ひとまず、抑えて、抑えて」


 見てると、どっちが悪いという話じゃなくて行き違いにしか見えない。


「どっちにしてもや。俺はACに受かったし、それやったら大阪の陽向と遠恋になるのはしゃあないやろ」

「やから、なんで遠恋が駄目だって決めつけるのん!?」

「大学生にもなったら、連絡が週1とか下手したら月1になるかもしれんやろ?陽向がそれに耐えられるとは思えんのやけどな」

「譲る気はないんやね?」

「せめて、遠恋やなければな」


 その言葉に、如月は一瞬、としたかと思うと。


「じゃあ、遠恋じゃなければええんやね」


 と衝撃的な言葉を発したのだった。


「は?何言っとるんや、お前は」

「私、大学、退学してきたんよ」

「はああ?おま、何しとるん」

「やって、健一のおらん大学生活なんて楽しくないし。この近くにもうアパート借りたし。それで、筑派大学を来年受験するから」


 行動力の塊みたいな人だな。まさか、彼氏のために大学を退学するとは。


「頭が痛いところやな。おかんとかおとん反対せんかったん?」

「ウチのオカンとオトンが放任主義なのはよく知ってるやろ?」

「あー、そういえばそうやった」


 いよいよ分が悪いのを悟ったのか、木橋もだんだん諦め気味になって来た。


「ウチはここまで覚悟決めて来たんやけど。それでも、より戻すつもりはない?」


 その真剣な言葉に対して、木橋はというと、


「ここまでされたら、俺も諦めるわ。今さら大阪に戻れって言うてもしゃあないし」

「なんだか、しぶしぶ言うんが気になるけど」

「まあ、俺も陽向の事嫌いになったわけやないし。でも、受験勉強大丈夫なんか?」

「た、たぶん」


 さっきまでの剣幕が嘘のように自信がなくなる如月。まあ、いきなり大学退学して別の大学の受験勉強をするのは大変だろうな。


「それやったら、俺が教えたい……んやけど、俺はAC編入やからなあ」


 しばらく考え込んだ後、木橋はというと、


「ほんとにすまんけど。陽向を教えるの手伝ってくれへん?」


 土下座でもしそうな様子でお願いをされてしまった。


「え、えと、私は構わないけど、如月さんの方はそれでいいの?」

「だよなあ。俺たち、初対面だし」


 そのあたりが心配だったのだが。


「……健一の友達やし、信用しとりますよ。健一から話は少し聞いとりましたし」


 そうあっさりと返事をしたのだった。こうして、男一人のために大学を中退した陽向が俺たちの仲間に加わったのだった。


 しかし、俺たちだけだと手に余るし、Byteの面々にも協力してもらってもいいかもしれない。いっそのこと、Byteに入ってもらうとか。


(しかし、愛の形も様々だな)

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