第12話 幼馴染が先輩を傷つけた件について
5月6日月曜日。ゴールデンウィークが終わって、少し憂鬱な毎日が戻って来た。今はちょうど昼休みが終わって、授業の無い空き時間。大学では、必修以外の講義はあるていど自由にとれるので、こういう風に時間割に穴ができることも珍しくない。そんな時間、俺とミユはホワイトボードとにらめっこしていた。
イプシロンデルタ(εδ)論法。それは、大学数学の基本である解析学で使われる基本概念であり、かつ、多くの計算機学部生を恐怖に叩き込む論法。これが理解できないために一部の人は留年するとかしないとか。ともあれ、そのεδ論法の説明が納得いかないらしいミユは、ホワイトボードに数式を書いてうんうん唸っていたのだった。
「そもそも、∀とか∃とかいうのがよくわからない……」
ミユが悩んでいるのは、量化子という概念に関するもので、たまたま別の授業を履修していた俺ははすんなりわかったのだが、いきなり解析学でこの記号が出て来たミユは未だに教員の説明に納得が行っていないらしい。これ、先に俺が受けたような量化子の話をするべきで、最初にεδの話をするのが間違いなのではないかと思うのだが、それはともかくミユは真剣に悩んでいる。本来、俺より頭が良いミユがひっかかるのはおかしいのだが。
ホワイトボードに書いている図を見ると、思考が堂々巡りをしているようなので、助け舟を出そうかと思っていた。すると。
「あー。εδ。これ、皆悩むよねえ。量化子の話先にしない先生が悪いんだけど」
通りがかりの先輩らしき学生がそんなことを後ろからつぶやいた。
「あのー。どなたでしょうか」
名前を尋ねてみる。
「僕は岩崎良太(いわさきりょうた)っていうんだ。ちょっと通りがかったら、εδの話が聞こえて来たから気になって」
岩崎先輩は、眼鏡をかけた知的な印象の人で、体型は痩せ型だった。いや、それはどうでもいいんだけど。
「そこの女の子。名前はわからないけど。僕で良かったら、教えようか?1年の頃詰まったから、気持ちはわかるし」
丁寧な申し出をする岩崎先輩。それは、きっと善意の申し出に違いなかった。しかし。
「通りがかりで、いきなり何なんですか?」
急に険悪な態度で接するミユ。あ。これはやばい。
「いや、確かに通りがかりだけど、困ってるみたいだったからさ……」
険悪な対応をされて困惑する岩崎先輩。
「別に困ってませんから。というか、なんでリュウ君じゃなくて私にだけ?」
どんどん雰囲気が悪くなっていく。
「いや、そこの男の子。リュウ君っていうのかな?は困ってないようだったし……」
しどろもどろで弁解する先輩。
「どうせ私に教えてどうにかしようって下心なんでしょう?」
親切に言ってくれているのは傍から見て明らかなのに、ミユの口撃は止まらない。
「……」
先輩は二の句が継げなくなって、完全に押し黙ってしまった。
「そうやって近づいてくる人ってサイテーだと思いますから。どっか行ってください」
ああ。やっちゃった。
「ああ。すまなかった。余計なお世話だったようだね。失礼するよ」
とぼとぼと学生ラウンジを出て行く先輩。あわてて、岩崎先輩を追いかける。
「あの。岩崎先輩。ちょっと話があるんです」
「ああ。ええと。リュウ君だっけ?」
力の無い返事。さっきの口撃がよっぽど応えたようだ。
「高遠竜二と言います。さっきは、ミユが、あ、朝倉美優ていうんですけど、俺の幼馴染がひどいことを言ってすいません」
せめて、ミユの代わりに謝罪はしておかなければ。
「いや、いいんだ。僕も、可愛い子が見えたから、っていうのもあったから、グサっと来たしね」
自分に一切非はないと主張してもいいのに、そのことを認めるというのは、よほど誠実な人なんだろう。
「でも、あれはなかったと思います。ただ、あいつ、昔のトラウマがあって。許してやってくれとは言いませんが、そのことだけは」
せめて、このことだけは伝えておきたかった。
「そっか。でも、ちょっと僕も情けなかったし。これで失礼するよ」
とぼとぼと肩を落として去って行ったのだった。さて、問題はミユだ。
ラウンジに戻ってもミユは居ないので、どこに行ったのかと思いきや【家に帰る】とラインでメッセージが来ていた。あいつ、相当凹んでるんだろうなあ。
急いで大学を出て、アパートにかけつける。インターフォンを鳴らすが返事はない。
「入るぞ」
合鍵を使ってミユの家の扉を開けて入り込む。すると。
背中を丸めて部屋の片隅に座っているミユが部屋の奥に居たのだった。
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