第16話 話をしようか

「あなたにはお詫びをしなくてはいけません。私の名前はブランシュじゃないんです。本当は……カロン……ネイディアの第六王女……なの」

 カロンの絞り出すような声に、ジェイクはうめくように「うん」と頷いた。その後何も言ってくれないことにカロンがそっと様子を伺うと、彼がどこかが痛いような顔をしているのが分かり胸が痛む。

「ごめんなさい、騙すつもりなんてなかったんです」

「いえ、こちらこそ申し訳ないことをしました」


 ジェイクの硬い声に、カロンは夢の終わりを告げられたように思えた。

 彼がスッと片膝をつき、次いで敬うように頭を垂れられ泣きたくなる。

「おやめください。お願い、今だけは態度を変えないでください。そんなことをしないで」

 今だけはお願い。

 そう言って手を引くと、困った顔をしつつもジェイクが立ってくれたため、四阿の長椅子に腰を掛けようと促した。並んで座り、彼の手を握ったまま震えが止まらないことに情けなくなる。話をしようと何度も唇を湿らせるのに、何も声にならない。


「シャロン……」

 あ、まただ……。

 この独特の訛りはカロンの胸の奥をくすぐる。それでも王女と呼ばれなかったことに少しだけ落ち着きを取り戻した。

「ライクストン様」

 見つめ合うと、ジェイクはふっと表情を緩ませ、

「態度を変えない代わりに――ぼくのことはジェイク、と呼んでもらえますか?」

 と言った。

 その悲しそうな顔と提案に一瞬戸惑うが、「友だちみたいに」と小さな声で付け足され了承する。

 友だちの名前なら……

「ジェイク様」


「様はいらない……」

「――ジェイク?」

「うん……ありがとう。では、話をしま……いや、話をしようか、シャロン」

 急にとても大人に見えるジェイクにカロンは恥ずかしくなって俯き、握っていた手をそっと放した。


「それで、どうして急に打ち明けようと思ったので……思ったんだい?」

 少しぎこちなく尋ねられ、カロンは頑張って顔を上げた。

 誠実であろうと決めたのだ。こうして話せるのは最後。グズグズしている暇などないのだから。

「今日や明日、王女の私に会ったら、私がブランシュではないとジェイクにばれてしまうでしょう? だからそうなる前に打ち明けたかったの」

「――どうして?」


 ジェイクの短い問いに、なぜこんな事をしたのかという意味だと思い、カロンは「ただの女の子でいられるのが楽しかったから」と、弱々しく笑った。

「お聞きになっているかもしれませんが、私は半年ほど前に頭を打って、それ以前の記憶がありません……。王女という自覚があまりない王女なの」

「ん……」

 ジェイクが複雑そうな表情になる。

「私、貴方に偶然会えたことも、一緒に出かけられたことも、本当に楽しかった。貴方を騙す気なんてなかったの。それだけは分かって下さい」

 言いたかったことを全部吐き出し、ふぅっと長く息をついた。これで立ち去らなければと思う。そしたら次に会った時は、王女と、夫候補者の護衛騎士だ。彼が許そうが許すまいが、もうこんなふうに言葉を交わすことはない。

 彼の主人を、カロンが夫に選ぶことはないだろう。それが彼と二度と会えなくなることだとしても。


 夜明けが近い。うっすらと明るくなってきた中、刻みこむようにジェイクの姿を見る。彼も黙ったままカロンを見ているのは、何も言う必要がないからかもしれない。

 一言、許すと言ってほしいと思うのはカロンの我儘だと分かっているから、喉の奥に塊がつかえたようになってもおもてにはには出さないよう気をつけた。


 ――ありがとうと言わなくちゃ。そしてさようならって、言わなくちゃ……。


 何度も何度も自分にそう言い聞かせるのに、カロンの唇は言葉を紡ぐことを拒否し続けている。このまま夜が明け、黙ったまま別れたらだめだと思うのに、口を開いたら言ってはいけない言葉を言ってしまいそうになる。涙がこぼれそうになる。そんな自分の弱さがいやだった。

 いっそ貴方に恋をしてしまったと打ち明ける? でも彼を困らせたくはない。困った顔なんて見たくない。覚えておくなら、さっきの笑顔と昨日のことだけにしたい。


「シャロン……ぼくも話があるんだ。王女じゃない君に。聞いてくれるかい?」

 ためらうように言ったジェイクは、どこか追い詰められているような目をしている。それでもこの時間がもう少し続くならと、カロンは小さく頷いた。

 すると彼は、カロンが逃げ出すのではないかという風に左の手を握ってきてドキリとする。

「シャロン、お願いだから逃げないで聞いてくれ」

「は……い……」

 カロンの目の奥までのぞき込むような真剣なジェイクの目に怖くなり、逃げ出したくなる気持ちをどうにか抑え込んだ。


「ぼくは君が好きだ」


 時間が、止まった。

 耳にしたものをカロンは心の中で反芻し、コテンと首をかしげる。

「え……?」

 ぽかんとしたカロンの手を強く握りなおしたジェイクは、もう一度

「シャロンが、好きだ」

 と繰り返した。

「君が何も覚えていなくてもいい。でもぼくは初めて会った時から、十歳のあの日から、ずっとずっと君が好きなんだ」

「十歳?」


 ――私は、この人のことを知っていたの? 異国の人なのに?


 右手を伸ばし、泣き出しそうに見えるジェイクの頬にそっと添える。

「ずっと君がシャロンだって、わかってて黙っていたんだ。すまない。謝るのはぼくのほうだ。君は何も悪くない」

 首を回したジェイクの唇がカロンの手のひらに触れ、全身に震えが走った。


 ――彼は、最初から私を私だと知ってて、それでもただの女の子として見てくれていたの?


 嬉しい。

 そう思った瞬間に、ようやく彼の告白が意味を成してドスンと落ちてきた。慌てて彼から両方の手を離すと、再び左手を捕まえられてしまう。

「お願いだ。逃げないで。今だけ。頼む……」

「あの、逃げ……ません」

 指先に口づけられ力が抜けた。

「ジェイク?」

 本当に?

 カロンの声にならない声でこぼれた疑問に彼はゆっくり頷き、

「少しだけ嘘」

 とささやいた。

「ごめん、本当は愛してる」

「あ……」

 上目遣いで申し訳ないとでも言うように愛を告げられ、こらえていたカロンの涙がこぼれた。


 それを見たジェイクが顔を歪ませる。

「ごめん。こんなこと言われても意味が分からないだろうってわかってる。気持ち悪いと思う。――ゆうべ一晩君のことを考えてた。どうしたら君にとって最善かって。でも情けないことに、ぼくは自己中心らしい。少しでも君の近くにいたい。やっと会えたのに離れるなんて嫌だ。それしか考えられなかった。――ごめん。本当にごめん。君の隣に立てなくても、それでもそばにいたい。二度とこんな風に話せなくても、どこにいるのか分からないことに比べたらなんでもないんだ」

 それは懺悔するような苦痛に満ちた声。彼の手から力が抜け、するりとカロンの手が落ちる。

「憐れな男だろ? だから君は何も気にしなくていいんだ。もし君を咎めるやつがいたらこう言えばいい。バカな男にそそのかされたんだって」

 弱々しい笑みは二人の間に厚い壁を作ったようで、カロンはふるふると首を振った。

「ちがう。そんなの間違ってる。私は私の意思で行動したもの。貴方を騙したの」

 バカなのは私だ。


「ジェイク。私が貴方に恋をしても、迷惑じゃない?」

「えっ?」

 カロンの言葉に信じられないことを聞いたかのように目を見開いたジェイクは、まさかと言うように苦い笑みを浮かべる。

「恋を? ぼくに?」

 自嘲に満ちた声を否定したくて、カロンは頷いた。

「――もう、してるの。大好きなの。止めたいのに止められないの」

 ぽろぽろと言葉と涙が零れる。

「好きに、なってもいい? ダメじゃない?」


「ダメなわけがない! ずっと好きになってもらいたかった。四年前に君が去った時だって、どうにも諦めることができなかったんだ。この最後の仕事が終わったら君を追いかけようって思ってた。――むしろぼくが聞きたい。ぼくの気持ちは迷惑じゃない?」

「うん。うれしい」

 どうにか答え微笑んだカロンの額に、コツンとジェイクが額を当て、ふふっと笑い合う。彼に涙をぬぐわれ、じわじわと幸せな気持ちに包まれた。


 額を離し、見つめ合い、頬に口づけされて心の奥がくすぐったくなる。

「一緒に、いてくれる?」

「喜んで」

 ジェイクの掠れた声と共に、ゆっくりと唇が重なる。

 二度三度と口づけられ、カロンの頭の奥で、ふいにカチリと何かがはまった。

 ジェイクを押しやり何度も瞬きを繰り返すカロンを、彼がいぶかし気に見つめ返す。

「シャロン?」

「――ジェイ、ク?」

 眉を寄せながらジェイクの名を呼んだシャロンは、ハッとしたように口元に両手を当て真っ赤になり、「えっ? えっ?」と視線をさまよわせた。

「どうしたの? 口づけは嫌だった?」

「ち、ちがうわ。そうじゃなくて――」


 ガバッと顔を顔をあげたシャロンは、ジェイクの顔を両手で挟んだ。

「ジェイク、あなた結婚式は?」

「はっ?」

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