第38話 バックミラー
ある地方都市の小さなタクシー会社で、原田さんはタクシードライバーとして5年ほど働いていた。
その頃まだ、彼女のような女性ドライバーは珍しかった。重宝がられることもあったが、嫌な思いをすることも少なくなかった。それでも原田さんはめげることなく、淡々と仕事を続けた。
入社後3年ほどして、彼女は先輩から古い型の車体を譲られた。その時に、
「これ、バックミラーにね、たまに映るんだよ」
という引き継ぎを受けた。
要は曰くがあるということ、そしてその曰くはどうやら車体ではなく、バックミラー自体にあるらしかった。詳細は先輩にもわからないという。
「色々映っちゃう代わりに、不思議と客はつくんだよ。原田ちゃん、並の男連中よりもよっぽど肝っ玉があるし、運転もうまいからさぁ。あんたを見込んであえて譲るんだよ。頼んだよ」
確かにその後、原田さんの売上は目覚ましく上昇した。しかしそれをさっぴいても、たまに「とっととあのバックミラーを取り替えろ」と会社に文句を言いたくなるような代物だった。
あるとき、葬儀屋の近くから乗ってきたお客さんがいた。
出発前に原田さんがバックミラーを確認すると、葬儀屋の名札をつけて喪服を着た顔色の悪い男性客の肩の上に、パンパンに膨れ上がった男とも女ともつかない真っ赤な顔が、もたれ掛かるように載っているのが映っていた。
うわ、ひさしぶりに映ったなぁ、などと思っていたら、突然その顔がバックミラー越しに原田さんを見た。と思ったら、暗い穴のような口を開けて、蛆の混ざった吐瀉物をガボガボと吐き出した。
「ヴぇっ」
それまで乗客の隣に、血まみれの女がニタニタしていたのを見ても平然と運転してきた原田さんだが、このときとうとうやらかした。
食道を酸っぱいものが駆け上がってきて、彼女は思わずハンドルの上に突っ伏した。車内に異臭が充満する。まさかのもらいゲロである。
迷惑をかけられたはずの喪服の乗客は、しかしなぜか彼女に何度も謝り、しきりに体調を心配しながらタクシーを降りていった。
「あのときはほんとに申し訳なかったなー。きっとあのお客さん、そういう状態になった仏様を担当したんだろうね。悪いことしたわ」
原田さんはその時のことを思い出すと、今でもすまない気持ちになるという。
件のバックミラーは、残念ながら今はその会社のタクシーに乗っても、お目にかかることができない。
原田さんがある女性客を乗せたとき、気がつくとバックミラーに、小さな女の子が映っているのに気づいた。後部座席にきちんと座ってニコニコしているその子があまりにかわいかったので、
「娘さんですか? お行儀がいい子ですねぇ」
と話しかけた途端、女性客がボロボロ涙をこぼし始めた。
彼女は数ヵ月前に、一人娘を亡くしていた。
その際にバックミラーの曰くを聞いた女性客は、原田さんが娘さんの特徴を言い当てたことに驚き、ますます泣いた。原田さんには、かける言葉が見つからなかった。
降車の際に目を腫らし、深々とお辞儀をしていったその女性客は、次の日に彼女の夫を伴ってタクシー会社に現れた。
我が子が映ったというあのバックミラーを、どうしても譲ってほしいという。
「それで、社長がほだされてねー。あげちゃったのよね。あんなに頑なに買い替えなかったのにさ」
だからその会社のタクシーに、例のバックミラーはもうない。
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