第32話 魔法

 大学生の頃、友香さんは入学時から付き合っていた彼氏と別れた。相手の浮気が原因だった。


 ふたりは仲間内でも「仲良し」「ベストカップル」と評判で、彼女自身もそう思っていた。それだけに裏切られた傷は大きかった。


 死んじゃおうかな、と思った。


 友香さんの母親は、彼女が高校生の時に亡くなっていた。ほかの家族は武骨な男ばかりで、こんな悩みなど聞いてくれそうにない。


 仲のいい友人は皆、彼女たちを「ベストカップル」と評していた子ばかりで、それだけに、今の辛さを訴えるには抵抗があった。弱った心には、「友人たちは、あんな男だと見抜けずにいい気になっていた自分を、陰で笑っているのではないか」という不安がちらついて仕方なかった。


 こんな時に相談できる相手、泣きつける相手が、少しも思いつかない。私ってその程度の人間だったんだ、と思うと心が萎んだ。


 もういいや。死のう。


 辛くてそんなことしか考えられなかった、と友香さんはその日を思い出す。




 顔に涙の跡をつけ、すっぴんのままで、友香さんは最寄り駅に向かった。電車に飛び込んで死ぬのが、一番楽だと思った。


 ところが、最寄り駅は比較的大きな駅で、やってくる全ての電車がそこに停まる。手前からトロトロと速度を落としている電車に飛び込んで、死に損ねるのは嫌だった。線路は高架で、駅の手前から飛び込むのも難しい。


 そこでいったん家に戻ったが、自殺を考え直す気はなかった。財布を持って、彼女は再び駅へ向かった。


 特急が停まらない駅まで行こうと思った。通過する電車なら、スピードを落とさないはずだ。


 そして、次に来た各駅停車に乗った。シートに腰を下ろす。


 その途端、猛烈な眠気が彼女を襲った。まるで「スイッチをOFFにされたよう」に眠り込んでしまったという。


 目を覚ますと、来たことのない駅まで来てしまっていた。


 友香さんはとりあえず電車を降りた。幸いというか不幸にもというか、そこは各駅停車しか停まらない駅だった。そこで次に通過する電車を待っていると、声が聞こえた。


「ともかちゃん」


 亡くなった母親の声に似ている、と思った。声は改札の外から聞こえた。


 そんなバカな、と思いながらも、確認せずにはいられなかった。彼女は慌てて精算を済ませ、改札を出た。


 小さな女の子を連れた女性がいて、バス停の時刻表を見ている。


「ともかちゃん、この数字読めるかな?」


 女性が女の子に話しかけた。さっきの声だった。友香さんの全身から力が抜けた。


 とぼとぼと駅に引き返す。ところが、改札の中に入れない。


 精算をしてからバス停へ向かう、そのわずかな間に、財布を落としてしまったのだ。


 探してみたが、どこにも見つからなかった。仕方がないので踏切を探そうと、線路を囲む高い柵を横に見ながら歩き始めたが、どうしたことか住宅地に迷い込んでしまった。


 完全に迷った。別の心細さが、彼女の心を覆い尽くしつつあった。その時、


「あれっ? 友香ちゃんじゃない?」


 女性の声がした。




 声をかけてきたのは、友香さんの小学校の同級生だった。私立の中学校に進学した彼女とは、小学校卒業以来会っていなかったが、なぜかお互い、すぐに相手のことを思い出した。


 友香さんがたまたま乗り過ごして降りた駅は、同じく進学のため上京した同級生が住む、学生マンションの近くだったのだ。


 気が付いたら同級生の部屋に通されて、泣き笑いしながらお酒を飲んでいた。


「そんなヤツのせいで死んだらバカみたいじゃん! もったいなーい」


 そうあっけらかんと言われて、憑き物が落ちたようになった。もう死にたいとは思えなくなっていた。




 次の日、友香さんは同級生に交通費を借りて、無事帰宅した。


 急激な眠気と、子供連れの女性と、財布をなくしたことと、迷子になったこと。どれか一つ欠けていたら、同級生には会えなかっただろうし、結局自殺していたかもしれない、と彼女は振り返る。


「なんか、まるで魔法みたいな偶然だったんだよ」


 話を終えて、彼女はそう呟いた。


 再会後、旧交を温めあった友香さんと同級生は、姉妹のように仲良くなった。


「ていうか、もうすぐほんとに姉妹になるんだ。あの子、今度うちの兄貴と結婚するからね」


 死にかけた甲斐があった、と彼女は笑った。

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