第21話 きっかけ
その日の夜遅く、いい感じに酔っぱらった木島さんは、自宅近くの駅で電車を降りた。
一月にしては暖かい晩で、空には明るい満月が出ていた。
ゆっくり歩く彼の前方数メートルのところを、ダウンコートを着た小柄な女性が歩いている。同じ駅を利用しているらしく、たまに見かけることのある女の子だ。あっさりした顔の美人で、見かけた日はちょっといい気分になる。
(いい晩だなぁ)
女性の後頭部で揺れるポニーテールを眺めながら、木島さんは思った。
歩くうちに、橋に差し掛かった。下には、あまり深さのない川が流れているはずだが、水音はほとんどしなかった。
ふと、前を行く女性が足を止めた。木島さんの歩みも止まった。下から突然、バシャバシャと激しい水音がしてきたからだった。
欄干を掴んで下を覗いてみると、近くの街灯に照らされた水面が激しく波打っている。何か黒っぽいものが蠢いているらしい。
この川には、大きな鯉が何匹もいる。たまに見かけることのある大きな白鷺も、あんなでかい魚は食べるまい。天敵のいなさそうな鯉たちには、たまに餌を投げてやる人でもいるのか、どいつも立派な体格をしていた。
どうも今、眼下で動いているのは、何匹かの鯉の群れのようだ。
(水の中になんかあるのかねぇ)
水面を見ながらそんなことを考えていると、突然一匹の鯉が、びちんと大きく跳ね上がった。
一対の白い腕が、その鯉に絡みついているのが確かに見えた。
掴まれた鯉は水中に消えた。「ひぇっ」という声が、彼の喉の奥から聞こえた。
「へっ」
ほとんど同時に、間の抜けた声がした。そちらを向くと、横に立って同じように水面を見ていたポニーテールの女性と目があった。
「い、今見ました?」
「見ました見ました! 何でしょう!?」
ふたりは興奮して話し合った。念のため近くの交番に行って、「川に誰かが落ちているかもしれない」と相談した。このとき、「万が一事件だったら、やりとりする必要があるかもしれない」と思ったので、木村さんは女性と連絡先を交換した。
警官はすぐに確認してくれたそうだが、どうやら川には誰もいなかったらしい。
そもそも、人が沈むほど深い川ではなかったのだ。
「……というのが、俺と嫁のなれそめなんだよねぇ」
そう言うと、木村さんは懐かしむような眼をして遠くを見た。
ちなみに、誰にも信じてもらえないだろうと川のくだりを適当に胡麻化していたら、いつのまにか彼らの周囲では、酔っぱらった木村さんが、酒の勢いで奥さんをナンパしたことになっていたそうだ。
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