第15話 フラスコ

「ちょっと古いかもしれないけど、スプーン曲げってあるだろ。あんな感じで」


 喫茶店のテーブルの向こうで、ティースプーンをつまんで大石さんが言った。


 彼の恋人だった女性は、そんな「スプーン曲げ」のようなことができたらしい。


 その女性と付き合い始めてからしばらく経ったある日、個室のある居酒屋でふたりで食事をしていると、彼女が突然話し始めた。


 本人にも上手く説明できないそうだが、なんでも疲れて頭がぼーっとしている時などに、ふと「脳みそがフラスコみたいにきゅーっと細長くなる」ような気がすることがあるという。


 ふと気づくと、手の中にあるものが曲がっている。


 そんな「体質」なのだそうだ。


 年に1回か2回ほどの頻度だが、自分の意志とは関係なく曲げてしまうので、困ったこともあるという。


 高校生の頃、バトミントン部に所属していた彼女は、夏休みになるとよく一日練習に参加していた。蒸し暑い夏の夕方、疲れてふらふらになりながらコートを片付けていると、ふいに「脳みそがフラスコみたいになる」状態に陥った。


 はっと正気に戻ると、手に持っていたネットを支えるためのポールが直角に曲がっていた。ちょっとした事件になったが、当然誰も彼女が曲げたものだとは思わなかった。


「大石くんには知っておいてほしいと思って」


 控えめにそう言ったきり、もうその話はしなかった。




 当時の大石さんは、彼女の話をまったく信じていなかった。


 ただ、普段から真面目で、特にオカルト好きというわけでもない彼女にしては、変な冗談を言うなと思っていた。


「まぁでも、ちょっと酔っぱらってたんだろうと思って」


 特に気にすることもなかったという。


 それから2年ほどして、大石さんは彼女にプロポーズをした。


 高級レストランのディナーを予約し、小さいけれどダイヤの入ったプラチナの指輪を、サプライズでプレゼントするという、ベッタベタのプロポーズだった。


 彼女はレストランで大泣きし、その場でOKをくれた。


 その日は近くのホテルに一泊し、午前中のうちに別れてそれぞれ帰路についた。


 自宅に着くと、プロポーズ成功の興奮が改めて蘇ってきた。ひとりで祝杯を挙げていると、しばらくして電話がかかってきた。


 さっき別れたばかりの彼女だった。


『あの……ごめんなさい……』


 消え入るような声がして、彼女の泣き声が続いた。


 深刻そうな様子に加えて、プロポーズという大舞台の直後である。


 何があったか、まだ話も聞いていないのに、全身から血の気が引くような思いがした。


「今からすぐ行く!」


 大石さんはもどかしくなって電話を切ると、とるものもとりあえず、タクシーを呼んで彼女の家に直行した。


 チャイムを押すと、申し訳なさそうな顔をした彼女の母親が出迎えた。


 その後ろに、泣き顔を歪ませた彼女が見えた。


「ごめん……これ……」


 そう言って、大石さんに右手を差し出してきた。


 掌の上で、昨夜渡したプラチナの指輪が見事に歪んでいた。


 円の形が崩れ、「へ」の字に曲がっていたという。




 帰宅した彼女が、大石さんにもらった指輪を夢見心地で眺めていたら、「脳みそがフラスコみたいに」なってしまったらしい。


 それを聞いた大石さんは、その場で爆笑してしまった。


「いやもう、だって、安心したんだもの。彼女は婚約指輪だからってんで、ものすごく慌てたらしいんだけど」


 修理のため買った店に持ち込むと、「一体何があったんですか?」と店員に驚かれた。


 それから半年ほどして、ふたりは結婚した。


 結婚してからもお玉を変形させたりしていた奥さんだが、第一子を出産して以降、なぜか「脳みそがフラスコみたいになる」ことはなくなったという。

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