第14話 お迎え

 春江さんが結婚して、3年目くらいのことだったというから、もう30年近く前の話だ。




 春江さんが嫁いだのは、旧家と呼ばれるような家で、立派な日本家屋に三世代の家族が暮らしていた。


 その頃、同居していた大姑の具合が悪く、まだ子供のいなかった春江さんが、もっぱら彼女の世話をすることになった。嫁ぎ先は会社を経営していて、舅と姑、夫はそちらの方で忙しい。舅や夫にはそれぞれ兄弟姉妹がいるが、それぞれに独立したり、他の土地に嫁いだりして家を出ていた。


 屋敷と言ってもおかしくない、広い家の中で、ほとんど寝たきりになった大姑とふたりきりになることが増えた。




 その年の冬は、とても寒い冬だったという。


 夜、春江さんが大姑の枕元でうとうとしていると、寝ている大姑に声をかけられた。


「お部屋に戻ってお休みなさいよ」


 てっきり眠っているものと思い込んでいたので、少し驚いてしまったという。


「いえ、私の部屋、誰もいなくて寒いですから。もうちょっと暖まっていきます」


「そう? 嫌よねぇ、広いばっかりの家なんだから……」


 そう話していた大姑だったが、すぐにまた目を閉じて、静かに寝息をたてはじめた。


 春江さんが嫁いできたばかりの頃、すでに大姑は90歳に近かったが、とても元気で、おしゃべりが好きな人だった。いつもきちんと着物を着こなしていて、おしゃれできれいなお婆さんだった。


 ところがその年の初めに、ふと風邪で寝込んで以来、めっきり体が弱ってしまった。外出しないどころか、枕も上がらないような日が多くなった。


 お嫁に来た時、何かと親類との間に入ってくれたのは、元気だった頃の大姑だ。その頃の面影も薄くなった寝顔を見て、春江さんはふと心細く、泣きたいような気持ちになった。


 枕元でうつむいていると、ふと廊下から足音が聞こえたような気がした。


 時計を見ると、夜の10時を過ぎている。家族の誰かが帰ってきたのかもしれない。


 大姑の部屋は、薄暗い廊下に面している。その境になっている障子は、下の方だけがガラス張りになっていて、誰かが来るとその足だけが見える。


 そのガラスの向こうに、一揃いの足が現れた。


 真っ白で小さな足だった。


 寒い夜だというのに、何も履いていない。


 大人の足にしてはやけに小さい。しかし、この家に子供はいない。


 誰だろう、と見ていると、足は部屋の前でこちらを向いて止まった。


 そして、やにわに足踏みをし始めた。


 子供が地団太を踏む時のような足取りだった。畳の上に座布団を敷いて座っていた春江さんは、身体の下に足を踏み鳴らす震動を感じた。


(誰!?)


 大声で叫んだつもりだったが、喉が突っ張ったようになって声が出なかった。


 その時、眠っていた大姑の上半身が、突然布団を撥ね退けて起き上った。


 途端に、床を踏み鳴らす足音が耳をつんざくほど大きくなった。春江さんは思わず目を閉じた。




 目を閉じていたのは、ほんの少しの間だったはずだという。


 春江さんがまぶたを開けると、廊下の足はいなくなっていた。


 家の中にも静寂が戻っている。


 大姑は、元のように布団の上で仰向けになっている。


 両目と口を大きく開けた顔が硬直している。


 息をしていない。




 その時、ようやく悲鳴を上げることができた。




 大姑の葬儀は、さして悲しみの色もなく終わった。


 皆が口をそろえて「大往生だ」と言った。その通りかもしれないが、春江さんの心にはしこりが残った。


 四十九日が終わった日、台所で姑と洗い物をしていると、姑がやにわに口を開いた。


「おばあさんが亡くなった時、何かが来たでしょう」


 背筋が凍りついた。彼女はただ「はい」と答えた。


「あれはおばあさんについていたものだから。私たちの時には来ないから、安心しなさい」


 そう言うと、姑は黙々と皿を洗い続けた。




 その言葉通り、以来春江さんはそのようなものは見ていない。


 何が大姑に「ついていた」のかも、誰にも聞くことはなかったそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る