「クトゥルーの呼び声」と管のついた太陽

 コリン・ウィルソンによる『ユング――地下の大王』に次のように書かれている。


 〈一九一〇年、ユングはたまたま二つのことを発見した。これは突如、集合的無意識という概念に結晶した。彼は『ミトラ祈禱書』というギリシアの魔術的なパピルスのなかに、太陽からたれ下がった管のことと、それが風のもとだということが書いてあるのを発見した。それは彼に、一九〇六年ある精神分裂病患者が語ったことを思い出させた。すなわち、この患者は太陽に勃起した男根があるのを見たと言い、「これが風が出て来る場所だ」とユングに語った。〉(安田一郎訳)


 これは引用中にもあるように、ユングが〈集合的無意識〉という概念を形成するに至るきっかけとなったエピソードとして知られているものである。(〈集合的無意識〉というのは、世界中の人間が共有している無意識があるといった考え方で、そのため遠くへだたった地域であっても同じ型の神話が語られているということが起こるとするもの。)


 この精神病患者の妄想と古代からつたわる伝承に、同じ要素が見つかるというエピソードは、ちょっと「クトゥルーの呼び声」を思い出させる。

 エインジェル教受のもとへ粘土板を持ち込んだウィルコックスは、精神病でこそないものの「心霊感応者」を自称する「変人」だったし、ルグラース警視が逮捕したのは太古よりの秘教の信者たちである。その両者が同じ名、同じ形態の邪神について語ったのだった。


 そうなると気になるのは、ラヴクラフトはユングを知っていたか、ということである。

 ユングが集合的無意識について論じた『変容の象徴』が出たのが1912年、クトゥルーの呼び声」が書かれたのが1926年である。

 1931年の時点では名前ぐらいは知っていたことは確かである。ラヴクラフトとH・S・ホワイトヘッドの共作である「罠」にユングの名が書き込まれているからだ(その部分を書いたのはホワイトヘッドの可能性もあるが)。その部分を引用すると、


 〈フロイトやユングやアドラーとともに、無意識が睡眠中に外界の印象を受け入れやすいことを諾うが、そうした印象は覚醒した状態に元のまま伝わることは稀れなのである。〉(大瀧啓裕訳)


 フロイト、ユング、アドラーを並列にならべているところを見ると、神話学に貢献したユングという認識はなく、フロイトの高名な弟子ということで知っていた程度ではないかと思う。


 ラヴクラフトを特集した『ユリイカ』1984年10月号(資料としては古いかもしれないが)では、秋山さと子と鎌田東二がそれぞれラヴクラフトとユングの関連について論じている。

 秋山の「ラヴクラフトと元型」は、「ダゴン」と「インスマスの影」を題材にしたユング派らしい分析。

 鎌田の「幼児性の悪意とエロス」(これは『神界のフィールドワーク』に再録されている。)では、ラヴクラフト作品とオカルティズムとの関連が語られているが、その中で「眠りの壁を越えて」のフロイトに触れた部分を引用したうえで、〈霊性と知性の分離と統合。これはもはやフロイト的なカテゴリーではなく、ユングのそれだ。〉と述べている。

 そして両者とも、ラヴクラフトはユングを、多分読んでいないだろうという意味のことを書いている。


   ◇


 ところで、ユングと言えば、笠井潔は『秘儀としての文学』という本の中のP・K・ディック論「消失する作者」で次のように書いている。


 〈『ゲド戦記』のル=グィンなど、ユング思想を導入したアメリカSF作品は少なくないが、おそらく『高い城の男』は、黄金期のアメリカSFにおいてユング思想と真正面から遭遇した最初の作品である。〉


 ユング思想の成果としてのディックSF。

 (ウィキペディアのフィリップ・K・ディックの項にもユングからの影響についての記述がある。)


 ではディックのSFとはどんなものか。

 ディックの短編集『まだ人間じゃない』に付された作者自身による「作品メモ」の中に〈わたしがよく用いる奇妙な論理〉なるものが紹介されている。


 〈まず、Yを仮定しよう。次にサイバネティックなスイッチの切り替えで、非Yが得られる。そこで、もう一度それを逆転すると、非・非Yとなる。よろしいか。さて、次の質問はこうだ。非・非YはYに等しいか? それとも、それは非Yをいっそう深くつきつめたものなのか?〉(浅倉久志訳)


 たしかにこれはディックSFの雰囲気をよくあららしていると思う。

 笠井の「消失する作者」でも〈『高い城の男』が、無数にあるパラレル・ワールドSFと根本的に異なっているのは、そこに、本物オリジナルと偽物・複製品・模造品、つまりシミュラクラという、固有にディック的とも言うべきテーマが根深く埋めこまれている点においてである〉とある。

 この〈シミュラクラ〉を解説したものが、上記ディックの〈論理〉と言えるだろう。


   ◇


 ともかくもラヴクラフトとディックは、ユングを経由して微妙につながっている。

 だとすれば、ディック的クトゥルー神話といったものを構想することもできるのではないか。

 クトゥルーは存在する。それは偽物かもしれないが、やはり本物かもしれない、そして人類は救われるかもしれないし、救われないかもしれない、というような。

 前回、『賢者の石』以降のクトゥルー神話は、スペースオペラ化するということを書いたが、それだとモダンホラーというか、ラヴクラフト的な怪奇小説の世界からは遠くなりすぎるという気もする。

 そこで、クトゥルー神話の新たな局面をひらく可能性として、ディック的な複数の現実というようなテーマを考えるべきではないか。

 ラヴクラフトの初期作品「北極星」や「セレファイス」などは、夢と現実の関係を扱った掌編である。これらの構成を利用しつつ、後期のよりクトゥルー神話らしい作品の内容を複合させることで、ディック的クトゥルー神話を編み出せるかもしれない。

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