第9話 居場所と土産


「家の人帰って来たみたい! ごめん、ブラッド。私家戻るね」

「あ、うん……」


 慌てた様子で椅子から立ち上がるモニカの銀髪がふわりと揺れる。

 どこを見ていいか悩み、少女の目ではなく唇を映しながら頷いた。


「あのさ、ブラッド」

「うん?」


 ふとモニカが立ち止まり、名前を呼んできた。


「もしかしてブラッドって、帰る家がない、とか?」


 いきなりの核心を突いた質問に答えられずにいると、肯定と受け取ったらしいモニカが続けてくる。


「あのお兄さんとも別れたら、ブラッド行く場所なくなっちゃうよね……。ブラッドさえよかったらさ、寂れてるけどこの村残ってくれてもいいからね? この村若い子少ないし、男手は大歓迎だと思うよ」


 驚いて足を止める。思ってもいない誘いだった。

 誰かにここにいていい、と言われるのは初めてだ。空のグラスも水が注がれていくような嬉しさが込み上げてくる。

 もしここに居られたらどんなに嬉しいだろう。

 毎日この少女と話せる日々を想像したら胸が躍った。

 たしかに感じる高揚感にふと気がついた。これが恋というやつなのだろう。


「……その時はよろしく」


 ロベルトとの約束なんか忘れて、口元を僅かに上げて返す。

 それを聞いたモニカは嬉しそうに目尻を下げて笑い、またね、と言って部屋から出ていった。

 楽しかった。

 美味しい物を、好きな少女と一緒に食べる。

 それだけのことなのに、今までのどんな時よりも楽しかった。

 また彼女と一緒に過ごしたかった。この村にいたかった。彼女が自分の話で笑うところを見たかった。


「……死にたくないな」


 ガス灯の光も見えない窓の外を眺めていたら呟きが零れた。

 耳に届いたその声は鼓膜からも心からもなかなか離れてくれなくて、だからこそこれが自分の本心なのだと思えた。

 初めて光に触れたと思った。


「……死にたく、ない」


 もう一度呟いたら内側から急かされているような焦燥感が込み上げてきた。ここにいたらロベルトに食べられるという恐怖もじわじわと膨らんでいく。

 モニカの両親はロベルトと飲むために宿屋を空けている。娘が帰ったのだから、宴はもう終わったのだろう。逃げ出すなら今しかない。

 だけどすぐにロベルトに「逃げたらモニカを儀式に使う」と言われたことを思い出す。自分だけ逃げても駄目だ。

 どうすればいいのかと頭が固まった。


 ガチャリと扉が会いたのはその時だった。

 部屋に響いたその音に弾かれたように振り返る。そこには紙袋を抱えた金髪の青年が立っていた。ちらっと見ただけだが顔が赤く、酔っているのだと分かった。

 ロベルトもこちらを見ている。自分の様子がおかしいことに気付いたのか、ふふと笑ってから目を細める。


「ただいま」


 ロベルトにしては呂律の回っていない口調で言い、扉を閉めて中へ入る。

 意外なまでに朗らかな声だった。


「お、おかえり……」


 ロベルトにこの言葉を言うのも不思議な気持ちだった。

 足取りの覚束ないロベルトは「んー」とも「むー」とも付かない声で相槌を打ち、先程までモニカと夕食を取っていた机にどさりと紙袋を置いた。


「これ貰ったんだけどー、お前にって。全部くえばー?」


 言うなりロベルトは、予想した通り壁際の寝台に倒れ込んだ。

 何時もと違う様子に調子が狂う。


「なに、それ」

「この村で取れたブルーベリーを使ったクッキーだとー。クッキーってあの崖に似てるから名産みた……」


 そこでロベルトの声は寝息に変わっていった。いつもより優しい声を聴くのは初めてだ。

 見世物小屋にずっといたこともあって、案外近くで泥酔している人を見る機会に恵まれなかった。酔いつぶれた大人というのは布団もかけずに眠ってしまうものなのだろうか。


 ホッとした。

 この様子なら自分がモニカを連れて逃げようが気付かないだろうし、当分起きないだろう。

 胸を撫で下ろしながらロベルトから視線を外し、貰ったというクッキーを映した。

 本当なら少しでも早くこの部屋から出た方がいいのだろうが、ケーキを口にした時の幸福感を覚えてしまった身としてはクッキーも頬張りたかった。ケーキだけじゃない、昨日食べたハンバーグと言い、この世には美味しい物が溢れている。


 そろり、となぜか忍び足になって机に近付き、置かれている紙袋をごそごそと開けた。

 茶色い紙袋の底に、それよりも薄い茶色の円盤状の物体が三つ入っている。その内の一枚に手を伸ばし、明かりの下に取り出した。

 ところどころブルーベリーの果実が生地に混ざっていることを除けば、ゴツゴツとしていて確かに宿の前にあった崖に似ている。


「んー……っ」


 早速クッキーを頬張ると、サクッという食感と共に口の中に甘さが広がっていく。甘味というのは、何度口にしても自分の目を細めさせる物らしい。

 この味にもっと浸っていたくて、クッキーを一枚食べ終えるなりまた袋に手を伸ばした。残っているクッキーを二枚共手に持ち片方を口に入れた。再び口の中に甘さが広がる。

 ケーキもだがクッキーも甘い。改めてもっとこの味を知りたいという気持ちが強くなる。

 異変は、最後の一枚を口にした時に起きた。

 急に足に力が入らなくなったのだ。


「へ」


 床に膝がつくと同時に、気の抜けた自分の声が漏れた。持っていたクッキーは座り込んでしまった際机の角にぶつけてしまったらしく、どこかに飛んでいってしまった。

 おかしい。

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