北魏20 虎牢陥落    

北魏ほくぎ軍は地下道を城内の井戸につなげ、

その水を外に流し出してしまった。

井戸の深さは70メートル近くもあり、

また周辺の斜面も急峻であったから、

毛徳祖もうとくそ軍にこれを防ぐ手立てはなかった。


そこから二日もたてば、

人も馬もすっかり乾き切り、

乾燥のあまり怪我をしても

まともに出血すらしないほど。


満を持して攻め込んでくる北魏軍に対し

もはや抵抗のしようもなく、

ついに虎牢関ころうかんは陥落した。


毛德祖、翟廣てきこう竇霸とうは、彼らの補佐官、

また城内に避難していた各地の郡主たちも

捕らえられた。

その中にあって劉談之りゅうだんし范道基はんどうき

200人を率いて包囲網を突破、

南に帰還した。


城がいよいよ落ちようかという時、

兵士たちは毛徳祖だけでも

なんとか逃がそう、とした。


が、毛徳祖は言う。


「我が天命は城とともにある。

 城が滅んでなお、この身を

 生き永らえさせてなどおれようか」


拓跋嗣たくばつしは毛徳祖の忠節を重んじ、

「絶対に生かしておくように」と厳命。

こうして毛徳祖は

九死に一生を得るのだった。




二十一日,虜作地道偷城內井,井深四十丈,山勢峻峭,不可得防。至其月二十三日,人馬渴乏飢疫,體皆乾燥,被創者不復出血。虜因急攻,遂剋虎牢,自德祖及翟廣、竇霸,凡諸將佐及郡守在城內者,皆見囚執,唯上黨太守劉談之、參軍范道基將二百人突圍南還。城將潰,將士欲扶德祖出奔,德祖曰:「我與此城并命,義不使此城亡而身在也。」嗣重其固守之節,勒眾軍生致之,故得不死。


二十一日、虜は地道を作し城內が井を偷み、井が深きは四十丈にして山勢は峻峭なれば、防ぐを得べからず。其の月の二十三日に至り、人馬は渴乏飢疫し、體は皆な乾燥し、創を被れる者は復た出血せず。虜は因りて急攻し、遂に虎牢を剋し、德祖より翟廣及び竇霸、凡諸將佐、及び郡守の城內に在る者は皆な囚執さるを見、唯だ上黨太守の劉談之、參軍の范道基は二百人を將い圍を突き南還す。城の將に潰えんとせるに、將士は德祖を扶し出奔せんと欲せど、德祖は曰く:「我、此の城と命を并せ、義は此の城の亡きに身を在らしむらざるなり」と。嗣は其の固守の節を重んじ、眾軍を勒し生して之を致し、故に死なざるを得る。


(宋書95-20_衰亡)




あーん、虎牢がおc


地下道を掘るなんて荒業、もう奥の手も奥の手といった感じですね。そこまでしないと折れなかった宋軍の士気の高さ、いや、毛徳祖の統率力のヤバさが凄まじい。語彙力も失います。


考えてみると徙民みたいなのって東晋人のトラウマ直撃ですよね。ただでさえ望まぬ移住を強いられた人たちの子孫であり、更に北魏は「男は殺し、女子供はさらう」だからよりタチが悪い。虎牢守兵たちにとっては「ここが落ちると悪魔に家族が踏みにじられる」だったのかなあ。


ともあれ、次話は毛徳祖伝。「重要な将だけど偉大なるリューユーサマ成り上がり伝説との関与が薄い」ため、こんなとこに伝が設けられています。毛修之もうしゅうし附伝じゃだめだったのかって思うんですが、考えてみれば他の武将たちの附伝も、やっぱり成り上がり伝説に絡むんですよねえ。長安攻擊にも絡んでるとは言え、毛徳祖は王鎮悪おうちんあくの副官扱いだから、微妙に目立たないですし。


それにしたってさぁ……みたいな気持ちは隠しきれませんが。

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