巻69 反乱をもくろみ刑死した政治家

劉湛1  晋の名族    

劉湛りゅうたん。字をは弘仁こうじん南陽なんよう涅陽ねいよう県の人。

いわゆる「光武帝こうぶていの子孫」と言うやつだ。

祖父の劉耽りゅうしん、父の劉柳りゅうりゅう

ともにしんの左光祿大夫、開府儀同三司。

一言でいうと、やべえくらい偉い。


劉湛は伯父である劉淡りゅうたんの爵位を継承した。

安衆あんしゅう県五等男。ずいぶん家格が落ちる。

父の爵位が公レベルなことを思えば、

父からは期待されていなかったようだ。


とはいえ若い頃より大局眼に優れており、

浮ついた若者に交わることはなかった。

史書に広く通じ、継承された経典を暗誦。

早い段階で宰相を目指しており、

自らを諸葛亮しょかつりょう管仲かんちゅうと引き比べていた。


とはいえ特に文章を残すわけでも、

誰かと議論を交わすわけでもない。

荊州けいしゅうは主簿として招きたいと考えたが、

辞退された。

ついで著作佐郎として招かれたが、

やはり辞退。


やがて劉裕りゅうゆうに太尉行參軍として招かれ、

非常に厚遇された。

司馬休之しばきゅうし討伐の段に至っては

鎮西功曹、治中別駕從事史に。

さらに太尉參軍となり、

劉義符りゅうぎふ付きの主簿となる。


この頃、父の劉柳が江州こうしゅうで死亡。

江州府は実家に劉柳の遺体を届けるときに

多くの葬送の品を伴わせたが、

劉湛はこれらをすべて送り返させる。

このふるまいは、大いに称賛を受けた。


喪が開けたところで祕書丞とされ、

さらには相國となった劉裕の參軍に。

このとき劉裕の側近であった

謝晦しゃかい王弘おうこうは、ともに劉湛の振る舞いを

筋の通ったものとして称えたと言う。




劉湛字弘仁,南陽涅陽人也。祖耽,父柳,並晉左光祿大夫、開府儀同三司。湛出繼伯父淡,襲封安眾縣五等男。少有局力,不尚浮華。博涉史傳,諳前世舊典,弱年便有宰世情,常自比管夷吾、諸葛亮,不為文章,不喜談議。本州辟主簿,不就,除著作佐郎,又不拜。高祖以為太尉行參軍,賞遇甚厚。高祖領鎮西將軍、荊州刺史,以湛為功曹,仍補治中別駕從事史,復為太尉參軍,世子征虜西中郎主簿。父柳亡於江州,州府送故甚豐,一無所受,時論稱之。服終,除祕書丞,出為相國參軍。謝晦、王弘並稱其有器幹。


劉湛は字を弘仁、南陽の涅陽の人なり。祖の耽、父の柳は並べて晉の左光祿大夫、開府儀同三司。湛は出で伯父の淡を繼ぎ、安眾縣五等男を襲封す。少きに局力を有し、浮華に尚ぜず。博く史傳を涉り、前世の舊典を諳んじ、弱年にして便ち宰世の情を有し、常に自ら管夷吾、諸葛亮に比べ、文章を為さず、談議を喜ばず。本州は主簿に辟せど就かず、著作佐郎に除せらるも又た拜さず。高祖は以て太尉行參軍と為し、賞遇せること甚だ厚し。高祖の鎮西將軍、荊州刺史を領せるに、湛を以て功曹と為し、仍いで治中別駕從事史に補し、復た太尉參軍、世子征虜西中郎主簿と為る。父の柳の江州にて亡ぜるに、州府は送故せること甚だ豐かなれど、一にも受くる所無かれば、時論は之を稱う。服の終うるに、祕書丞に除せられ、出でて相國參軍と為る。謝晦、王弘は並べて其の器幹有せるを稱う。


(宋書68-1_為人)




ここで「諸葛亮とか管仲とか(笑)」っていうのは簡単なんですが、世説新語で殷浩が似たようなふるまいであった(まぁ、彼は周りから言われていましたが)ことを思えば、迷わずそう自負できるだけの家格であった、と言えそうなんですよね。ここは見落としちゃいけなさそう。


じっさい、父の劉柳って晋宋交代期ですっげえ重要な人物臭いんですよ。けどあんま載ってないの。なぜなら宋ができるのにあたって活躍したひとじゃないから。あくまで沈みゆく晋という国にあっての重鎮。


劉湛、来歴からすると、宋で幅を利かす奴らになんぞ負けんぞ、みたいな気持ちも多分に抱えてたんじゃないかなー。その思いがいろいろ暴走したように見えなくもない生涯を送ってます。もう少し振る舞いようもあったろうにねぇ。

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