申恬   趙燕に仕えた家 

申恬しんてん、字は公休こうきゅう郡魏県の人だ。

曽祖父の申鍾しんしょう後趙こうちょう石虎せきこに仕え、

三公、司徒にまでのぼりつめた。


その後一族は南燕なんえんに仕えたようで、

劉裕りゅうゆうが南燕を滅ぼすと、

一門揃って劉裕に帰順した。

そして皆、才幹ありと言う事で

よく取り立てられた。


例えば父親、申宣しんせん。その従兄、申永しんえい

それと、兄の申謨しんも


先に抜擢を受けたのは申永である。

410年~420の間に青兗せいえん二州刺史、

いわば対北魏ほくぎ戦線に当たる地の

守備を任ぜられている。

劉裕が皇帝となると、太中大夫に。


申宣は、劉義隆りゅうぎりゅうが即位して間もなく、

やはり兗青二州刺史となった。


申謨しんも朱序しゅじょの孫、朱脩之しゅしゅうしとともに

最前線の滑臺かつだいを守っていたのだが、

北魏軍に捕らわれてしまった。

後に北魏で謀叛を起し、

無事に逃げ延びてくるのだが。

そして元嘉げんか年間には竟陵きょうりょう太守になった。


そんな感じで、一門揃って

重要な役割についている。


その中にあって、申恬。


帰順して間もなく、劉道憐りゅうどうれんの幹部に。

劉裕が皇帝となると東宮殿中將軍、

皇太子のための宮殿の守備隊長に。


その後、「度し臺に還ず」。

なんだこれ、よくわからない。


ともあれ宮殿近くの警備の任に

つくこと十年余、

一切休息を求めることがなかった。


その後さまざまな軍務をこなし、

455 年には督豫州よしゅう軍事、豫州刺史に。

が、翌年に病を得、帰還を命じられる。

その帰途にて死亡、69 歳だった。


死後遺体が家に運び込まれた時、

家内に余計な財物は一切なかった。




申恬字公休,魏郡魏人也。曾祖鍾,為石虎司徒。高祖平廣固,恬父宣、宣從父兄永皆得歸國,並以幹用見知。永歷青、兗二州刺史。高祖踐阼,拜太中大夫。宣,太祖元嘉初,亦歷兗、青二州刺史。恬兄謨,與朱脩之守滑臺,為虜所沒,後得叛還。元嘉中,為竟陵太守。恬初為驃騎道憐長兼行參軍。高祖踐阼,拜東宮殿中將軍,度還臺。直省十載,不請休息。孝建二年,遷督豫州軍事、寧朔將軍、豫州刺史。明年,疾病徵還,於道卒,時年六十九。死之日,家無遺財。


申恬は字を公休、魏郡の魏の人なり。曾祖は鍾、石虎が司徒為る。高祖の廣固を平らぐに、恬が父の宣、宣が從父の兄の永は皆な國に歸せるを得、並べて幹用を以て見知らる。永は青兗二州刺史を歷す。高祖の踐阼せるに、太中大夫を拜す。宣は太祖の元嘉の初、亦た兗青二州刺史を歷す。恬が兄の謨は朱脩之と滑臺を守れど、虜に沒せる所と為り、後に叛じ還ぜるを得る。元嘉中、竟陵太守と為る。恬は初に驃騎の道憐の長兼行參軍為る。高祖の踐阼せるに、東宮殿中將軍を拜し、度し臺に還ず。省に直せること十載、休息を請わず。孝建二年、督豫州軍事、寧朔將軍、豫州刺史に遷る。明年疾病し徵ぜられ還ぜるも、道にて卒す,時に年六十九。死の日、家に遺財無し。


(宋書65-7_政事)




申鍾が石虎のもとで三公にまでなった人物と言う事で、祖父世代が前燕でも重臣になっています。そう言う来歴を持っている人物が東晋の元に帰順してくるって言うのは、「離れ離れになっていた漢人たちが再結集できた」みたいな扱いになるんでしょうかねえ。まぁあんまり厚遇はされなかったみたいですけど。


ともあれ申恬さん自身はずいぶんストイックで忠勤な将軍さんだったようです。そして結構な重責も負っている。魏晋南北ブログさんが展開されている「元嘉諸王略史」シリーズ

http://gishinnanboku.blog.fc2.com/blog-entry-1897.html

にも大きく関わってきそうな感じがし、良いですね。

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