何承天6 狷介な大学者
剛直、である。
同等、あるいは上の官位の人間で
気に食わないやつがいると、
もう露骨に侮蔑の意を表す。
そんな何承天については、
尚書僕射の
なので外部に出された。
新しい官位は、
とはいえ何承天、
さんざん周りとぶつかり合っていた。
衡陽での仕事ぶりも、まあひどい。
全然公正でも清廉でもない。
なので弾劾を受け牢にぶち込まれた。
間もなく釈放されたが。
439 年、著作佐郎に。
宋の歴史を編むことになった。
このときの何承天が 69 歳、
普通なら引退を考える歳。
だが、ほかの著作佐郎らは、みな若い。
しかもやたらとプライドの高い
名家のボンボンたちである。
おいおい、なんかジジイが同僚だよ!
そんな感じで、中でも
ようは三国志の荀彧とルーツを同じくする
小僧から「ママ♪」と呼ばれていた。
何承天、ガキに対してややギレ。
「鳳凰が九人の子を連れる、
と言うべきであろう。
何がママ~♪ じゃ、
このこわっぱ!」
そんな感じで返している。
447 年、何承天は
廷尉に任じられようとした。
が、劉義隆、それをフェイクとし、
本当は何承天を吏部に移そうとしていた。
風紀取締から、人事へ。
なんだかんだで、やはり
有能であったことが伺われる。
それも、とびっきり。
が、この劉義隆肝いりの人事を、
何承天、うっかり他者にバラしてしまう。
これで劉義隆の何らかの計画は
おじゃんとなり、主犯の何承天は免職。
そして自宅に戻ったところで、
何承天は死んだ。78 歳だった。
何承天以前、禮に関する論述が
800 巻をも超える有様だった。
流石にそりゃ煩瑣すぎでしょう、と
何承天、類似のケースは取りまとめ、
300 巻ほどにまでシェイプアップ。
ほかにも前傳、雜語、纂文、論をものし、
すべては現在にも伝わっている。
また
このあたりについての議論は、
律志、曆志に記されているとおりだ。
承天爲性剛愎,不能屈意朝右,頗以所長侮同列,不爲僕射殷景仁所平,出爲衡陽內史。昔在西與士人多不協,在郡又不公清,爲州司所糾,被收繫獄,值赦免。十六年,除著作佐郎,撰國史。承天年已老,而諸佐郎並名家年少,潁川荀伯子嘲之,常呼爲奶母。承天曰:「卿當云鳳凰將九子,奶母何言邪!」二十四年,承天遷廷尉,未拜,上欲以爲吏部,已受密旨,承天宣漏之,坐免官。卒於家,年七十八。先是,禮論有八百卷,承天刪減併合,以類相從,凡爲三百卷,並前傳、雜語、纂文、論並傳於世。又改定元嘉曆,語在律曆志。
承天が爲性は剛愎にして、朝右に意を屈す能わざれば、頗る長ぜる所を以て同列を侮し、僕射の殷景仁に平がらる所とは爲らず、出でて衡陽內史と爲る。昔西に在りて士人と多く協せず、郡に在りても又た公清たらざれば、州司に糾さる所と爲り、收を被り獄に繫がれ、赦免さるに值う。十六年、著作佐郎に除せられ、國史を撰ず。承天が年は已に老いたれど、諸佐郎は並べて名家の年少にして、潁川の荀伯子は之を嘲い、常に呼びたるに爲えらく「奶母」と。承天は曰く:「卿は當に鳳凰の九子を將いたると云いたるべし、奶母とは何ぞを言いたりしや!」と。二十四年、承天は廷尉に遷れるも、未だ拜さずして,上は以て吏部に爲さんと欲し、已に密旨を受くるに、承天は之を宣漏し、免官に坐す。家にて卒す、年七十八。是の先、禮論は八百卷を有したれば、承天は刪減併合し、類を以て相い從わしめ、凡そ三百卷と爲す。並びに前傳、雜語、纂文、論は並べて世に傳わる。又た元嘉曆を改定す、語は律曆志に在り。
(宋書64-21_任誕)
何承天のお仕事を見てみると、お前は前漢の
鳳凰將九子
穆帝の時代、升平四年二月に鳳皇が九人の子を率いているのが豐城と言う地で目撃されたという。なおその翌年に陛下亡くなってるんですが、これ吉兆として見ちゃっていいんですかね……。
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