張敷2  父と、自らの死 

領域が広かった荊州けいしゅうの一部を分割、

湘州しょうしゅうとすると、張邵ちょうしょうが初代刺史として

赴任することになった。

なので張敷ちょうふ、自らの職務をなげうち、

父のサポートのため湘州に。


その後劉義隆りゅうぎりゅうからの命が下り、

西中郎将、つまり劉義隆の幹部に。


劉義隆が皇帝となると、

員外散騎侍郎、祕書丞に任じられた。


その後張邵が吳興ごこうに転任、そこで死ぬ。

この知らせを聞いた張敷、大ショック。

病を得てしまう。


だが、寝込んでもいられない。

職務中に身にまとう服のまま帰宅し、

急ぎ建康けんこうを出立、呉興に向かう。

行程は十日あまり。

それだけの日にちを経、

ようやくスープを飲むだけの

気力が湧いてきた。


とは言え、葬儀を終えたあとも、

味のするものを口にすることはなく、

みるみるやせ細り、病は篤くなった。


伯父の張裕ちょうゆう、そんな張敷を諭す。

が、諭されれば、そのたびに

父のことを思い出す。

張敷の慟哭は、さらに深いものとなる。


張裕は言う。


「何ということだ、

 お前に元気になってほしい気持ちが、

 かえってお前の悲しみを

 深めてしまうとは」


なので張裕、その後はあまり

張敷のもとに訪れなくなった。


それから間もなくして、

張敷も死んだ。41 歳だった。




父邵為湘州,去官侍從。太祖版為西中郎參軍。元嘉初,為員外散騎侍郎,祕書丞。父在吳興亡,報以疾篤,敷往奔省,自發都至吳興成服,凡十餘日,始進水漿。葬畢不進鹽菜,遂毀瘠成疾。世父茂度每止譬之,輒更感慟,絕而復續。茂度曰:「我冀譬汝有益,但更甚耳。」自是不復往。未朞而卒,時年四十一。


父の邵の湘州為るに、官を去り侍從す。太祖は版じ西中郎參軍と為す。元嘉の初、員外散騎侍郎、祕書丞と為る。父の吳興に在りて亡ぜるに、報を以て疾篤く、敷は往奔し省み、都より發し吳興に成服にて至り、凡そ十餘日にして、始めて水漿を進む。葬の畢うるに鹽菜を進めず、遂に瘠を毀ない疾を成す。世父の茂度は每に止め之を譬したるも、輒ち更に感慟し、絕えて復た續く。茂度は曰く:「我れ、汝に益有の譬を冀わん。但だ更ごもに甚だしきのみ耳。」是より復た往かず。未だ朞れずして卒す、時に年四十一なり。


(宋書62-7_徳行)




父や母の喪失によって身を損ねる、と言うと王戎を思い出します。かれの場合は洛陽周辺で済んだけど、張敷は呉興まで出張らなきゃいけなかった。そこできっと、かなり体力を失ったことでしょう。


しかし張邵にしろ張敷にしろ、なぜ没年の明記がないかなぁ! おかげでどのくらいの世代なのかいまいちわっかんねえんですよ二人共!

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