宋書列伝

巻61&68 劉裕の息子たち

劉義真1 長安留任    

孝獻こうけん王 劉義真りゅうぎしん



劉裕りゅうゆうの男児は七人。それぞれ母親が違う。

ちょう夫人は劉義符りゅうぎふの母。

孫修華そんしゅうか劉義真りゅうぎしんの。

胡婕妤こしょうよ劉義隆りゅうぎりゅうの。

王修容おうしゅうよう劉義康りゅうぎこうの。

袁美人えんびじん劉義恭りゅうぎきょうの。

孫美人そんびじん劉義宣りゅうぎせんの。

呂美人りょびじん劉義季りゅうぎきの。

こうしてみると劉裕、

あまりランクの高い妃とは

積極的におセッセセを

していなかったのかもしれない。



それはさておき、次男の劉義真である。

一言で言って、頭のいいイケメン。

ほんとに? 可哀相な死に方したから

盛ってるわけじゃなくて?


はじめ桂陽けいよう県公に封爵された後、

十二歳にして劉裕の北伐に従軍。

劉裕が長安ちょうあんに向かったときには、

袁湛えんたん范泰はんたいが滞在していた

栢谷塢はくやうに待機した。


員外散騎常侍とされたが、

受けなかった。


長安平定後、間もなく劉穆之りゅうぼくしが死亡。

なので劉裕は帰還を計画したが、

既に遠征は長期間に及んでいる。

多くの兵士らも、やはり帰還を

望むようになっていた。


そこで問題となるのは、

誰に長安を守らせるか、だ。

人情に沿う人事を考えれば、

長安を地元とするような、

いわば、建康けんこうから見たところの

「いなかざむらい」に守らせるのが良い。


が、それでは「漢族の将」を希求した

長安の人々は納得しないだろう。


そこで劉裕、劉義真を抜擢した。

都督雍涼秦三州

司州之河東平陽河北三郡諸軍事、

安西將軍、領護西戎校尉、雍州刺史。

ようは長安に駐在し、その周辺に

にらみを利かせ、かつ長安位西の

荒事をすべて監督する。


まぁ、十三歳のガキに与えていい

官職ではない。

いくら名誉職とはいえ、

激烈に危険な任務だ。


なので劉裕、地元出身の王脩を

副官としてつけ、その取り仕切りを任せた。




武帝七男:張夫人生少帝,孫修華生廬陵孝獻王義真,胡婕妤生文皇帝,王修容生彭城王義康,袁美人生江夏文獻王義恭,孫美人生南郡王義宣,呂美人生衡陽文王義季。廬陵孝獻王義真,美儀貌,神情秀徹。初封桂陽縣公,食邑千戶。年十二,從北征大軍進長安,留守栢谷塢,除員外散騎常侍,不拜。及關中平定,高祖議欲東還,而諸將行役既久,咸有歸願,止留偏將,不足鎮固人心,乃以義真行都督雍涼秦三州司州之河東平陽河北三郡諸軍事、安西將軍、領護西戎校尉、雍州刺史。太尉諮議參軍京兆王脩為長史,委以關中之任。


武帝に七男あり。張夫人は少帝を生み、孫修華は廬陵孝獻王の義真を生み、胡婕妤は文皇帝を生み、王修容は彭城王の義康を生み、袁美人は江夏文獻王の義恭を生み、孫美人は南郡王の義宣を生み、呂美人は衡陽文王の義季を生む。廬陵孝獻王の義真は儀貌美しく、神情秀徹なり。初に桂陽縣公、食邑千戶に封ぜらる。年十二にして北征の大軍の長安に進めるに從い、栢谷塢にて留守す。員外散騎常侍に除せらるも拜さず。關中の平定さるに及び、高祖は議し東還せんと欲さば、而して諸將の行役は既に久しく、咸な歸願を有し、偏將を止留せば、人心を鎮固せるには足らざれば、乃ち義真を以て都督雍涼秦三州司州之河東平陽河北三郡諸軍事、安西將軍、領護西戎校尉、雍州刺史を行ぜしむ。太尉の諮議參軍の京兆の王脩を長史と為し、以て關中の任を委ぬ。


(宋書61-1_政事)




劉裕のときの皇妃ランクをおさらいしときましょう。


皇后      ←臧愛親

貴嬪、夫人、貴人←張闕

淑妃、淑媛、淑儀

修華、修容、修儀←孫氏、王氏

婕妤、容華、充華←胡氏

美人      ←袁氏、孫氏、呂氏


たぶん全ランク揃ってたと思うんですよね。で、その后との間に生まれてたのは、結構女の子が多かったのじゃなかろうか。っつーか後半はこれ、多分ランクの高い后たちに見向きしてないっぽい。ランクが高い后は実家が太いはずで、それほど生活にも困らないけど(張闕なんかは例外だけど、彼女の場合は劉裕がのし上がり始めた、早い段階に迎え入れられていた妾だったんじゃないかって思う)、下のランクの娘たちはそうも行かない、みたいな。なのでランクの低い娘たちと、優先的に子をもうけるようにした……とか考えるとエモいんですけど、どうなんでしょ。


ところで今まであんま興味なかったからまともに見てこなかったんですが、劉裕の末っ子、劉義季の誕生が 415 年なんだそーです。で、名前に「季」ってついてるってことは、劉義季出産の、少なくとも半年前くらいには劉裕の子作りが終わってる事になります(※「季」字は末っ子に与えられる)。ってこた、ある程度の段階で劉裕には皇帝クラスに準じる後宮が与えられてたことになりますね。それも 414 年までには、ほぼ形が整えられてた。


これは、どのタイミングから易姓革命が規定ルートになってたかを占うにあたって重要な情報かもしれません。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る