第二十六話 胸に顔をうずめるとかそういうの

「あ、雪奈さん……。オハヨウゴザイマス」

「そうね。まだ朝だから暴力事件は避けるべきよね」


 遠い目で怖いことを言い出す雪奈さんに戦慄しながらも、俺は裁きを受けようと逃げそうになる足を食い止める。

 見てわかるほど怯える俺を見て、雪奈さんは何を思ったのか。


「……えっ?」

「そんな意外そうな顔をしないの」


 柔らかく微笑んで俺の頭に手を置いた。

 罵倒されて然るべきと考えていた俺はあまりにもそれが信じられず。


「どうしてですか?」

「いやぁ、私の弟は偉いなと思っただけよ」


 などと問うのだが、雪奈さんは微笑を絶やさず俺の頭を撫でるばかりで。

 ますます困惑する俺を雪奈さんは優しく抱きしめた。


「雪奈さん、苦しいです」

「いいじゃない。存分に甘えていいのよ」


「あの、芙弓がいること忘れていませんか? さすがに芙弓の前で雪奈さんに甘えにいくのはちょっと」


 いつもと同じように甘えコースへ突入しようとしているが、今回は事情が異なる。

 なにせ芙弓がいるのだ。さすがに兄だろうが先輩だろうが友人だろうが、姉の胸を堪能しながら甘える姿を晒すのは抵抗がある。


「そんな心配をする必要はなさそうよ」

「どういうことですか。放してくださいよ——っ!」

「お兄ちゃん、お姉ちゃんに甘えるなら妹にも甘えないとダメだよ」


 砂糖のごとく甘い声に、現在の状況を察する。

 背中から伝わる温かい温度は芙弓の体温で、微かに伝わる柔らかい感触は彼女の身体の柔らかさだけではなく——。


「待ってください。この状況はマズいですってお二人さん」

「「何が?」」


 だが俺の姉と妹は思ったより強者らしい。

 俺が社会的に死にそうになっているというのに、まったく問題とも思っていないようだ。


 前方からは花の蜜のような匂い、後方からはミルクのような匂いが漂ってきて気絶しそうな俺をもうちょっと気遣ってくれないものか。


 もはや顔をうずめている胸を楽しむ余裕さえない。

 どうしたものかと思っていたそのとき、不意に雪奈さんの豊満な胸から顔が引きはがされた。


 芙弓が助けてくれたのか、と思っていたら方向を変えられ再び抱きかかえられる。

 だけど雪奈さんと比べると芙弓の胸は小さい。恐らく世間一般で言われるところの貧乳に位置する部類なので息もしやすい。


 ひとまず落ち着いてきたのだったが、そうなれば当然今の状況もアウトだということが分かり、離れようとするものの。


「お兄ちゃん、妹の胸から離れる兄なんていないよ?」


 頭上から威圧的かつ魅力的な声が降ってくる。

 そんなわけがあるか、と言いたくなるのも山々なのだが、これで逆らえるほど俺の精神は強固ではない。


 芙弓が満足するまでここにいよう、と思い俺は抵抗をやめた。


「あらあら、随分と楽しそうなことじゃない。お姉さんも混ぜてほしいわ」

「たぶんお兄ちゃんは中学生のほうが好きだと思うよ。ねーお兄ちゃん?」


 殺気すら感じる雪奈さんの言葉を受け流した挙句、俺に話を振る芙弓。そんな肝心なところを俺に渡さないでほしかった。


「え、そうなの? 永政くんはお姉さん好きよね? 特にメイドのお姉さんとか」


 確かにメイドのお姉さんは限りなく俺の性癖に寄り添った属性だ。ドンピシャといっても過言ではないだろう。


 だがしかし、妹属性が嫌いかといわれれば違う。絶対違う。むしろドンピシャだ。

 性癖のカバーが広いせいでここまで困ることがあろうとは。


「ねぇ、なんでずっと黙ってるの? 妹大好きでしょ?」

「そんなことないわよね? お姉さん大好きでしょ?」


 じわじわと追い詰められているような心境になるが、それでも俺の頭の中では天秤がシーソーゲームを続けていた。


 そこで出た結論は『姉派』だったのだが——これを言えば芙弓に殺される気がする。否、気のせいでもないはずだ。確実に殺される。


 お姉さん大好きです! と言いたい衝動を抑え、打開策を練る。

 酷使しすぎて疲弊した俺の脳が出した策は。


 逃げる、だった。


「「あっ」」


 隙を突かれた彼女らはそうひとこと漏らすが、構わず俺はとにかく走り続けた。

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