第二十三話 雪奈さんの過去 —雪奈視点
永政くんの「是非、お願いします」という声が聞こえる。
見るからに面白くもなさそうな話なのに、よく聞く気になったものだと思いつつも、それでこそ私が好きになった永政くんだとも思う。
だから、私は安心して面白くない話ができるのだ。
「たぶん、意図的に踏み込まないようにしてくれていたのだろうけれど——私が、仕事を辞めた理由について話そうと思うの」
永政くんの目が驚いたように見開かれる。いざ話すとなればやはりこうなるのだろう。
止めるでもなく、話を聞く体勢になった彼の様子を確認して、私は口を開いた。
あの、地獄のような日々を思い出しながら。
❆
最初は、天国のような日々だった。
仕事は大変ながらもやりがいがあって、本当に楽しかったのを覚えている。
しかし、その日々は決して長い間続いたといえなかった。理由を平たく言えば、いじめにあったのだ。
子どもたちの前では、当たり前ともいえるが普通に接してくれた。逆を言うと、子どもたちが帰ってしまったら可能な限りでの無視や物隠し、手作り教材を壊されたりなど。学生でもこんなことしないだろうといった内容のイジメが繰り広げられていたのだ。
それでも、この仕事が好きだから頑張ろうと思えた。
今担当しているこの子たちが卒業すると同時に転職しようとも考えた。
そんな雰囲気を察知したのだろうか、先輩から投げかけられる「ここで無理なんだから次でもできっこない」といった言葉。
精神的に追い詰められた私はその言葉を妄信的に信じ、もう自分には道がないのだと思い込み。
もういっそのこと、自殺しようと考えた。
あの子たちが卒業したら。つまり、卒園式の日に死のう。
そう決意を固めたとき、左京家右京家合同の新年会をやることも決まった。場所は左京家だという。
呆然とこれで右京家の面々と会うのも最後なのかな、と思っていたのだが、成長した永政くんを見て気が変わった。
私がこの道を目指すことになった理由。ずっと彼の成長を見ていたいという願望。
永政くんの隣にいたい。心からそう思えた。
思わず零れそうになる涙を堪え、久しぶりの会話を噛みしめた。
それから、自殺願望はひとまずナリを潜めたものの日常は変わらず。
ずっと嫌がらせや陰口を言われたり、かなりの確率で理不尽な残業を言いつけられたりしたが、何とかあともう一年、持ちこたえることに成功した。
だが状態は悪く、部屋に籠ることくらいしかできなくなっていたけれど。
❆
「ごめんね、面白くもない話をしちゃって」
「いえ。俺、雪奈さんのことをもっと知りたかったので」
永政くんはときどき頷きながら、ずっと私の話を聞いていてくれた。
永政くんの赤眼が私の瞳を貫く。
何物にも染まらない黒い髪を撫でたくて仕方ない。
「永政くん、本当にありがとう。ずっと隣にいたいよ」
このくらいで彼の意志は揺るがないと知りながらも、思わず誘惑してしまう自分がいる。それも、かなり強い。
そんな私に、永政くんは至極穏やかな声で「俺もです」と答えた。
私たちの間に敬語なんていらないのに、どうして彼はいつも敬語で話すのだろうか。
きっと彼なりのルールがあるのだろう。
そう自分で結論付け、私は彼の大きくなった手をそっと握った。
いつも私の後ろをついてきて、手を握ってやったあの頃とは似ても似つかぬ、自分より大きく固い、温かい手だった。
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