一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(4-2)
六年後、統合暦六四二年。クゼの丘での戦いが始まると、まず隣の寝台で寝ていた古年兵が爆弾で四肢を破壊されて死んだ。分隊長も小隊長も次々と宙を飛来する弾丸に倒れ、その度に上官が入れ替わった。一段落着く頃には、見知った顔は同期の上等兵と他数名の兵士のみで、サリマンは十数年を費やした自分の医療の知識が戦場では赤ん坊が買い物を手伝うよりも役に立たないことを悟った。
死んでいった彼らの中で、印象的な死といえば、ある古年兵の最期だった。
その兵士は八年軍にいてもほとんど昇進せず、一年で上等兵まで上り詰めたサリマンと同室の戦友とは大違いだった。おまけに陰湿で嫌味な奴で、悪質な嫌がらせをよくしていた。しかし驚くべきことに、そんな彼が死んだ理由は、地雷に足を乗せてしまった仲間の身代わりになったからだった。
スモークォ製の地雷は踏んだ瞬間ではなく踏んで足が離れた瞬間に爆発する。だから理論的に言えば、乗った重さが保たれれば爆発はしないのだ。それでその古年兵は、片足を地面から離せなくて泣いている仲間の代わりに自分の足を乗せ、仲間を遠くに逃がした。そして出来る限りのスモークォ兵を自分の周囲に
初めてその話を聞いたとき、彼は──サリマンは、それが自分の知っている古年兵とはにわかに信じられなかった。
そんな高潔な去り方をした人間が、サリマンを突然殴って「なんで殴られたか言ってみろ」「そうかそう思うのか、ならそうだ」と笑った男と同一人物だなんて、考える前に脳が拒否する。でも事実なのだ。悪い意味で目立っていたその古年兵の信じられない去り際を、誰もが目に焼き付けていた。
死とは、不思議なものだった。
間近に迫るとその人間の上辺の皮を剝ぎ、本性を露わにする。
だとしたら──自分はどうなるのだろう。
弟や家族に、報せることが出来るものだろうか。
サリマンはそんな疑問を持った。
幸い運だけはよく、狙撃に
──私が死ぬときは、老衰がいいけど。
──そうもいかんのだろなぁ。
そのとき大きな声で名を呼ばれ、慌てて顔を上げる。例の同室の戦友だ。後方にあるタコツボの死体を担当しろというので、大人しく従った。
突貫工事で仕上げたタコツボはそれでも腰辺りまでの深さがあった。しかし今は転げ落ちた死体のためそれを踏んで歩くと足首から上は全部丸見え。これじゃあ上に積み重なってる奴はろくに隠れられなかっただろう。一つの骸のかっぴらいた眼球をとことこ歩く羽虫が羽音を響かせて飛ぶのを手で払いつつ、黙々と認識票を回収していった。
と──そのとき。
金属を地面に
──生存者だ。
「待ってろ!」
一番近くにいたサリマンが、重力のままに寝そべる死体を退ける。正直もう身体中の筋肉が役割を放棄する寸前くらいに疲労が溜まっていたがそんなのにかまっている暇はなかった。腐臭にまみれて暗い中に埋まっている状態なんて、ひどい恐怖だったろう。二人目を退かした先にいたのは──果たして、緑の軍服を着た戦友ではなかった。
鉄の国を示す黒い軍服。
スモークォの兵士だった。
「──ッッ!」
一緒に掘り起こしていた仲間が、ほとんど反射に近い動きでその兵士の頭を蹴り上げた。ごろり、兵士の体が斜めに転がる。
「よさないか!」
サリマンは
「なに言って……ッ、こいつ敵だぞ!」
「そんなことわかってる! ここでの戦いは終わった! 戦道法に反する!」
「んなもんあってねぇようなもんだろが!!」
顔を真っ赤にして唾を飛ばし信じられないというようにきつく眉根を寄せる仲間がサリマンを
「どけキーガン」
「駄目だ」
「なら殺せよ」
仲間のささくれた手の平は、腰の拳銃に伸びていく。
「それも駄目だ」
「っなんでだよ……!」
「……」
サリマンは、ちらりと背にした兵士を見た。まだ輪郭の丸さが残っている。二十代前後といったところだろう。
「弟と同い年くらいなんだ」
意図せず下がった眉尻に、仲間は腰に向かって空を泳いでいた指先を止めた。しばらく納得いかないというように歯を嚙み締めていたが、兵士が顔面を蹴ってもぴくりともしないのを見て危険はないと感じたのか「勝手にしやがれ」と吐き捨て、周囲で見守っていた他の仲間と作業を再開した。
「大丈夫か?」
振り返った先、敵兵は耳慣れない異国語でなにかを呟いていた。
「なんだ? 息が苦しいのか? それとも傷が痛むか?」
「ウォギ……ウォ、ギィ…………」
砲撃で被弾でもしたのかズタズタに皮膚が裂けている顔に配置された唇は
「『ウォギ』? 水か、わかった待ってろ」
残り一口分しか入っていない水筒を肩から外し、キャップを捻る。戦っている内に形が歪んでしまったのか、中々開かない。
四苦八苦して、もうちょっと待ってろと言おうとしたとき──
──サリマンは、気付いた。
それは五感が収集した情報によって無意識下に生み出された予想というより、実に人生の四分の一を戦ってきた兵士の勘に近かった。殺そうとしている。走った目玉は敵兵の手元に視線をなぞらせる。敵兵の指先は、その腰の小口径のリボルバーに届かんとしていた。
ここでサリマンが立ち上がり、背負った歩兵銃を構え、敵兵の心臓か頭部を撃ち抜くのには二秒もいらない。この重傷の少年より、一応狙撃兵として戦場を駆けたサリマンの方が
戦場に来た
死ぬ直前、人はその本性を露わにする。
では自分は──?
ビリッと音を立てて、脳裏を記憶が過ぎった。肺炎をこじらせて
そして同時に、昨日までの戦場の光景も重なって浮かび上がる。突撃してきた敵兵に無我夢中で銃剣を突き出して、手から肘に向かって命の
弟に見せた医師を目指した姿か。それとも兵隊さんごっこをする子供の憧れであった兵士か。
サリマンの思考に使った時間は一秒に満たなかった。彼は一つ瞬きをすると、水筒のキャップを力一杯捻った。
「……ほら、水だ」
愚かなことだと、わかっている。わからないほどサリマンは子供ではない。けれど──これが最期の瞬間として選択出来るのであれば、兵士としてではなく医師を目指した男として終わらせたかった。そして、この敵兵が喉を通った
喉仏が力なく上下し、そして。
──サリマンは、左胸を撃たれた。
「──、」
だよなぁという納得と、ちくしょうという悔恨が同時に胸に迫り上がり、それは血を含んだ空気として口から排出された。元々突いていた片膝がかくりと折れ祈るように両膝を突く形になった。サリマンがくすんだ緑の軍服がみるみる黒っぽい赤色に染まっていくのを視界に収めていると、銃口をこちらに向けていた敵兵の体が
犬のように
「意識ははっきりしてるな? 大丈夫だ、見せてみろ」
心臓近くを通った弾は太い血管を傷付けたらしく、手の平の中で壊れた蛇口から出る水のように出血しているのがわかった。どうやら声に出ていたらしく、同期が「大丈夫だ。肋骨と筋肉が守ってくれてる」と声をかけながら鎮痛剤を射ってくれた。傷を見るためだろう、彼の青年らしくも傷だらけの手がそっとサリマンの手を退かした。途端、コップをひっくり返したように血液が溢れ──ああ、駄目なやつだ、と苦笑する。実際はほんの少し口角がひきつっただけだったが。
「……キャスケット」
同期に、相応しくない呼び方だとわかっていても声を絞って呼びかける。
「なんだ」
「からだが動かない」
「……ああ」
「き、きずから、目が離せ……ない、んだ。自分が段々死んでいくのなんか見たくない……私は、家族のことを思い出しながら死にたい…………」
俯いたサリマンの口から、粘っこい喀血が、蜘蛛の糸が垂らされるように地面に落ちていく。
同期はその願いにただ一言、「わかった」と応えた。
そうして彼はサリマンの体を横たえさせると、濁りつつあるその両目の上に自分の手を重ねた。視界が暗闇に覆われると、情報量が少なくなって、サリマンは自分の感情と記憶に意識が向くようになった。
たまに兵舎裏に遊びにくる猫。
朝日に照らされる真夏の射撃訓練所。
日が沈む瞬間が一番怖かった真冬の行軍訓練。
大嫌いな古年兵。
連なる山。
広がる麦畑。
小さな小さな、田舎の風景。
その間を駆け回る、棒切れを持った小さな子供たち。
少し頼りないけど沢山の愛で育ててくれた母と、彼女が作るシチューが煮える音。
博識で愛国心の強い父と、彼の薬品と煙草の臭いがする分厚くて硬い手の平。
母の腹の中にいた一度も顔を見たことがなかった末の子。
賢くてやさしい、自慢の弟。もう会えない。二度と頭を撫でてはやれない。抱き締めてやれない。彼が今、どれほどの苦しみや厳しさの中で生きていても、もう、頑張ったね、そう一言声をかけてやることさえ。
とりとめのない──けれど叫び出したくなるような──情景が心を撫で、あるいは突き刺す。そして、丘で綴った『追伸』──。
そのとき──薄灰色の雲の切れ間から天使の
「──…………」
サリマンは唐突に解した。
死とは、うちに帰れなくなることなのだと。
そして帰れないと
死の間際の本性とは、
──ではなにを遺すべきか。
──なにを、遺したいのか?
最後に過ぎったのは、弟と別れる際夏の日に奢ってあげた大衆食堂の檸檬ジュースだった。果実由来の酸味が
──あぁ……帰ったら、あの日の檸檬ジュースを、また飲ませてやりたかった。
指の間からこちらを覗き込む同期の顔が見えた。すると、キャスケット帽の鍔の下で、その蜂蜜色の双眸がサリマンの言葉に了解したというように瞬いた。
それに安堵し、サリマンはゆっくり目を閉じる。
悔いがないと言ったら噓になる。ないわけがないのだ。
けれど、この血濡れの丘で、最後までなにか綺麗なものが在るのではないかと信じ続けた自分の間抜けな性分。サリマンは、そんなどうしようもない愚かな自分の信仰が、そこまで嫌いではなかった。
──たとえ、死に直結したものだったとしても。
──たとえ、肉体は家に帰れなくても。
──私の魂だけは。
もう自分の足ではどこにもいけない。でもきっと、誰かが家族のところに自分の魂を届けてくれる。
サリマンは、蜂蜜色の瞳をした友人に見詰められながらそう信じた。
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