8(謎解き編)
「——あーもう全然っわからん」
どれくらい時間が経っただろうか。あれからずっと机に向かい続けていた俺はペンを放り投げて背もたれにぐったりともたれかかった。結果は芳しくなかった。考えても考えても謎が解けることなく、机の上にはただいたずらに埋め尽くされたルーズリーフだけが何枚も溜まっていっただけの時間だった。
ちらりと視線をベッドへと向ける。
そこには陽子が、せっかくかけてやった布団を蹴飛ばしてベッドの下に落とし、自分の尻尾を抱き枕にしてぐっすりと眠っていた。股の間から通したふさふさの尻尾に抱きついて仰向けで眠るその姿は、まるで大事な石と餌を抱えながら海にたゆたうラッコのように見えた。とても幸せそうで心地良さそうな寝顔だ。
「……こうしてると、普通の子どもにしか見えないんだけどな」
いつもの尊大な態度がなりを潜めてただ無邪気さだけが表出している陽子の寝顔というものは、本当に、見ていると、この小さな女の子が1000年を越えて生き続けている妖狐であるということを俺に忘れさせる。遊び疲れた子どもが眠っているようにしか見えない。いつもこんな風ならいいのに、と俺は内心ため息をつく。
……ていうか、あのもふもふの尻尾を抱き枕にするのめちゃくちゃ気持ち良さそうだ。今度頼んだら俺もやらせてくれるだろうか。
……さすがに無理か。断られるだろうし、よしんばやらせてくれたとしても絵面が酷いことになる。血のつながっていない小さな女の子——たとえその年齢が俺よりもだいぶ、どころかものすごく上だったとしても——に背後から抱きつきながら眠る俺のその姿は、はたから見れば完全に事案だ。通報されても文句は言えない。陽子が家にきてから床に布団を敷いて寝てきた俺の努力が一瞬でぶち壊しになる行為だ。自重しなければいけない。
「——げ、もう2時かよ」
陽子から視線を戻し、スマホを見て俺は驚く。いつの間にか4時間も経っていた。いわゆる丑三つ時、お化けの出る時間だった。
「……どうりで眠くなるわけだ」
深夜という時間を意識してしまうと、途端に眠気が這い上がってきた。集中力が切れたというのもあるのだろう。知らずおおきな欠伸が出る。
これはダメだ、と、俺は頬を軽く両手でぱちんと叩くと、机の上に置いてあるガムボトルから一粒とり出して口に入れた。噛むと、ミントのスーッとした香りが口の中から鼻腔へと抜けていき、呼吸をするたびにその刺激で、重くなりかけたまぶたを開かせてくれているのを感じる。
そうして多少なりともすっきりとさせた頭で、もう一度気合を入れてあらためてじっくりと手紙を見てみることにした。
『稲草たける君へ
明日の放課後、この場所で待ってる。
——1936年Wの、5日目。
——1908年の、1日目。1912年の、3日目。2010年の、1日目。1968年Sの、2日目。
——2000年の、2日目。1952年Wの、1日目。2006年の、2日目。
桜かなえより。
P.S.
用件は、わかるよね?
ヒント:日にちを文字に置き換えてみて』
「う〜ん、どうすればいいんだよ……」
けれど頭が多少すっきりしたところで同じことだった。なんど見てもいっこうに謎が解けるような気がしない。俺はまた今日なんどこぼしたかしれないその言葉を呟いた。
——偶数年であることに何か意味があるのだろうか?
——たまにWとかSが付いているのはどうしてだ?
——日にちを文字に置き換えろっていったいどういう意味なんだ?
そんなふうに決まって思い浮かぶ疑問だけが頭を堂々巡りしていって、時間だけが、なにひとつ分からないまま焦る俺のことを嘲笑うかのように、ここまで時を積み重ねてきたのだった。
「ダメだ……このままじゃ絶対に解けない……」
こんがらがっていくだけで、一向に進まない状況に、俺は頭を抱える。
いちど頭を空っぽにしてみよう。そうすれば無駄な考えが削ぎ落とされて洗練されていくかもしれない。
そう考えた俺は、目を閉じて深呼吸をする。そして頭を空っぽに、からっぽに、からっ……ぽに…………。
「……! やべっ、いま一瞬寝てた……!」
ダメだ! この方法では頭が空っぽになっても眠ってしまう。何か考えていなければ。
——そうだ、ヒントだ。やっぱり謎を解くために一番重要だと思うのは、この文末にあるヒントだ。かなえのことだ、ミスリードといったようなことはないと思う。だからこのヒントの意味がわかれば必ず解法に近づけるはずなのだ。
それに、もうひとつヒントといえば、白椿通りで偶然あったときにかなえが言っていた言葉を思いだす。
——きょうの部室での会話を思い出してみて。ヒントになるようなことは、わたしぜんぶ言ったはずだからさ!
と。そしてそれを思い出した俺は、その言葉こそがこの謎を解く上でもっとも重要なものになるという気がしてきた。なぜなら、かなえの——この手紙を書いた主の言葉だ。そこには必ず意味があるはずだった。
だから俺はまずそのヒントについて考えてみることにした。
でも……
「部室での会話って言ってもなぁ」
色々な雑談をした気がするのだ。手紙にはじまって、ポスターの話、天気の話、音楽の話、とにかく色々な話をした。いったいどれが手紙を解く上でのヒントになるのだろうか?
「でもやっぱり……オリンピックのポスターのことぐらいかぁ?」
部室での会話の中で、ヒントになりそうなものといったら俺にはそれぐらいしか思いつかなかった。
とりあえずスマホを手繰り寄せて、ダメ元で『1936年 オリンピック』と検索してみることにした。1936年は、手紙に一番最初に出てくる年だ。どうせこのまま考えていたってどつぼにハマるだけなのだ。それがたとえクモの糸のように細い手がかりだろうが調べてみることは悪くないだろう。もしかしたら、それがお釈迦様が垂らしている糸だってことがあるかもしれないのだ。なにより、スマホで調べるのはすぐにできることだしな。
そんなある意味打算的な考えでのことだったが、
「おっ?」
意外なことに、検索結果の一番上にはベルリンオリンピックという表示があった。どうやら1936年にはオリンピックが行われていたようだ。だけどそれでこの謎がオリンピックに関係していると決め付けるのは早計だ。たまたまかもしれない。
俺は焦らず、つぎに『1908年 オリンピック』と検索してみた。すると、
「まただ……」
こんどもトップページにロンドンオリンピックと表示された。どうやら1908年にもオリンピックは開催されていたらしい。これは、ひょっとしたらひょっとするんじゃないか? そんな淡い期待が俺の頭をもたげてくる。
だけどまだわからないと、俺は次々とスマホに『手紙に書いてある年 オリンピック』と入力していく。
そして検索していくうちに俺はどんどん興奮してきた。
なぜなら、
「——おいおいマジかよ! これ全部オリンピックが行われた年じゃないかっ!」
検索したすべての年にオリンピックが開催されていた! さすがに手紙に書いてある年すべてが、偶然オリンピックが開催された年だったとは考え難い。これは、ビンゴかもしれないと希望の心が沸き立ってくる。
はじめて暗い夜の中に、一筋の光明が見えてきた気がした。うっすらと、細い光。だが確実にそれは答えへと続いている光に俺には思えた。
そしてその実感をますます深めるものがあった!
ところどころの年のあとに付いていた『S』と『W』の文字だ。
意味がわからなかったこの『S』と『W』という文字だが、オリンピックに結びつけて考えると、すぐに答えがでたからだ。すなわち、
「なるほど、Sはsummer、Wはwinterってわけか!」
夏季オリンピックと冬季オリンピック。これらの文字は、このふたつを区別するためのものとしか俺には考えられなかった。
だけどそうなると、新たな疑問が表に出てくる。
それはどうして限られた年にだけしかこの文字が付けられていないのか、という疑問だ。例えば——手紙にあるなかで俺の知っているのでいうと——『2010年』を『2010年W』としてもいいはずだった。
だがとりあえず俺はその疑問を置いておいて、まずこの『S』と『W』の解釈が本当に合っているのかを確かめるため、『1936年 冬季オリンピック』と検索してみることにした。さっき調べたときはベルリンオリンピックが開催されていたという事実だけで、それが夏季か冬季どっちのオリンピックだったかは見ていなかったのだ。
だが、
「あれ? さっきはベルリンオリンピックって出たのに」
スマホの画面に映し出されていたのは、ベルリンオリンピックではなく、ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックという検索結果だった。俺は戸惑う。
どういうことだろうか。そう思ってスマホでオリンピックについて調べていくと、どうやら冬季オリンピックが開催されるようになった1924年から1992年まで夏季オリンピックと冬季オリンピックは、同じ年に開催されていたようなのだ。
ずっと2年ごと交互に開催されているとばかり思っていたから、俺はそのことを知って驚いた。けれど、そうなると先ほどの疑問はすぐに氷解した。
「やっぱり区別をつけるためだったんだな。1924年から1992年までは夏季冬季どっちも開催されていたから」
俺は謎解きを進めていく。
これで手紙に書かれていた年が、オリンピックが開催された年だということはわかった。けれどそれはいったいどういう意味になるのだろう。順当に考えるならやっぱり開催された都市に意味があるのだろうか。
俺はそう考えて、オリンピックという文字を抜いて都市名だけを手紙に沿って書き出してみた。すると、次のようになった。
——ガルミッシュ・パルテンキルヘンの、5日目。
——ロンドンの、1日目。ストックホルムの、3日目。バンクーバーの、1日目。メキシコシティーの、2日目。
——シドニーの、2日目。オスロの、1日目。トリノの、2日目。
「……で? これからどうすればいいんだ?」
だがそれから先がわからない。これでは結局、数字がカタカナに変わっただけだ。5日目とか、1日目とかの意味がわからないことにはどうしようもない。
そのとき俺はもうひとつのヒント、手紙に書いてあった方のヒントを思い出した。手紙の複製に立ち返って俺はそのヒントをもう一度ながめた。
「日にちを文字に置き換えてみて、か」
呟いて、書き出した紙と、そのヒントをじっと見くらべていた俺の頭に、天啓のようにある閃きが降りてきた。
「もしかして……『日』を『文字』に置き換えてみろってことか?」
俺の思考は冴え始めている。そう確信するに足る閃きだ。俺にはもう、そうとしか考えられなかった。自然口元がにやけてくる。答えは近い。そう思った。
俺は新しいルーズリーフを1枚取り出すと、さっきの文を閃きに従って書き直してみた。
——ガルミッシュ・パルテンキルヘンの、5文字目。
——ロンドンの、1文字目。ストックホルムの、3文字目。バンクーバーの、1文字目。メキシコシティーの、2文字目。
——シドニーの、2文字目。オスロの、1文字目。トリノの、2日目。
俺は今度こそはっきりと眩いばかりの光を見た。大きくて、太い、まるで太陽のような導きの光を。
もうここまで来たらあとは簡単だ。書いてある通りにすればいいのだ。『ロンドン』の、『1文字』は『ロ』というようにな。
俺は同じようにそれぞれ対応する文字を抜き出してみる。
——シ。
——ロ。ッ。バ。キ。
——ド。オ。リ。
「ん? シ、ロッバキ、ドオリ……?」
だが、意味のある言葉にならない。やっぱり間違っているのか……? あ、いや待てよ。この
そうすると、こうなるのか。
——シ。
——ロ。ツ。バ。キ。
——ド。オ。リ。
「ええーと……シ、ロツバキ、ドオリ……? ん、……シロツバキドオリ——」
そこまで考えて、俺は思わず椅子から立ち上がって叫んだ。
「——あ、そうか! 白椿通り!!」
叫んで、はっと我にかえった俺はあわててベッドの上の陽子を見た。大丈夫だ。ぐっすりと眠っている。起きる様子はなかった。
俺は陽子を起こさないようにと静かに椅子に座りなおす。そして味のなくなっていたガムをティッシュに取り出すと、心に湧いてくる嬉しさと安堵の気持ちをかみしめた。
これが謎が解ける快感。絶対に解けるわけがないって思っていたものが解けた時の快感!
陽子が夢中になるわけだ。これは楽しい。すごく嬉しい。パズルが組み上がっていくのに似た快楽だ。
そうか、待ち合わせは白椿通りか……。
そうやってしばらくその興奮に身を任せていた俺だったが、
「……これで、いいんだよな」
と、正解のファンファーレなんてならないから、冷静になってくると急にこれでいいのかどうか不安になってきた。もちろん待ち合わせ場所を指定する謎解きで、答えが『白椿通り』と読めるのは偶然というわけではないだろう。もし偶然だったらそんなのどのくらいの確率なのだろうか。間違っているはずはない。
けれど。
一方で、何かが引っかかる。
抜き出した文字を見ていると、なぜか気持ち悪いような違和感を覚える。じっと見ているとその正体に気がついた。それは、白椿通りという文字をどこで切り取るかということだった。俺にはかなえの手紙に書かれた表記はなんだかおかしいと思えた。
俺だったら白椿通りという言葉は、
——シ。ロ。
——ツ。バ。キ。
——ド。オ。リ。
と、こんな風に分けるはずだ。そのほうが収まりがいい。
だが、かなえの分け方はそうなってはいなかった。どうしてだ? そこにはそれ相応の理由があるのではないだろうか?
そんな風に考えながら、もう一度手紙の複製を見ていた俺は、ある言葉に目が止まった。それは追伸の欄に書かれた文だった。
——用件は、分かるよね?
謎を解くのにかまけてすっかり忘れていたが、そういえば俺はそのことも思い出さなければならなかったのだ。完全に失念していた。
スマホを見ると、4時を少し回ったところ。気がつくと、もう夏の空が白みはじめる時間だ。
どうする? このまま違和感とかなえの用件を考えるか、それとも、待ち合わせ場所はわかっているんだからともう寝てしまい、違和感はほっといてかなえの用件については授業中にでも考えるか。どうする、俺?
時間はない。俺はすぐに決断を下した。
俺は——
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