4(怒れる陽子)

「——遅いッ! お主、一体いままでどこをほっつき歩いておったのじゃ!」


 手紙をなくしたあと、すっかり薄暗くなりはじめた空の下をとぼとぼ歩いてようやく家へと帰り着いた俺を待っていたのは、そんな陽子の怒鳴り声だった。


「……はあ、何をそんなに怒ってるんだよ陽子……」


 陽子の怒っている理由に思い当たらず、それにあちこち手紙を探しまわって疲れ果てていた俺は深いため息をついて声の主に向かって呆れた視線を向ける。


 視線の先にいるのは小さな女の子。とてもかわいい容姿の女の子だ。


 淡い紫色の着物をまとった身長100センチメートルほどの小さな体。凛として整った顔。ルビーのように真っ赤で大きな瞳。鮮やかな赤みの混じった黄色い髪は肩のあたりで綺麗に切りそろえられていた。


 そんな目をみはるほどの美少女がいま、上がり框に立って両手を腰にやりながら、その端正な顔をゆがめて憤怒のごとく玄関に立つ俺を睨み続けていた。


「何を言っておるのじゃ! 私はけさ言っておいたであろう! きょうは早く帰ってくるのじゃぞと!」

「……そういえばそんなことも言っていたような気がする」


 凄まじい陽子の剣幕に俺はそういえばと頭をもたげる。


 それに何か重要なことを忘れている気がする。


 重大な何かを……。


 先ほどから陽子がいきり立つのに合わせるかのように、その頭にちょこんとのっている柴犬のような耳がぴんっと張り詰めているのを見ていると、そんな嫌な予感がふつふつと俺の背中を這い上がってくるのが感じられた。


 もうひとつその予感を確信させるものがあった。


 尻尾だ。


 陽子の背後から見え隠れしているその身長ほどもある大きな尻尾が、普段は柔らかくて触るともふもふしているのだが、いまのそれはというと剣山のように鋭く毛の一本一本が立ち上がっていた。


 これはものすごく怒っている。俺は事態の緊急さを改めて認識し、喉をごくりとならした。


 陽子の尻尾と耳は機嫌を知るバロメーターだ。


 こう言うと。なに言ってんだよ、たける。どうせただのコスプレだろ? そんなんで人間の機嫌がわかるかよ、とそんな声が聞こえてきそうだ。


 だが、違う。それは甚だしい勘違いだ。陽子の耳や尻尾はコスプレとかそういうわけではない。


 これは本物なのだ。


 陽子は人間ではない。妖狐ようこと呼ばれる狐の妖怪なのだ。こう見えて1000年を越えて生き続けているらしい。


 妖狐だから陽子とはなんとも安易な名付け方だが、これは別に俺がつけたわけじゃない。出会った時、陽子から自分のことはこう読んでくれと言って渡された紙にそう書かれていたのだ。


 このことはまえに陽子に尋ねたことがある。


『その名前ってさお前が自分で考えたのか』と。そうしたら陽子はこう答えた。


『お主と会うちょっとまえに、たまたま出会ったわらべにつけてもらったのじゃ』と。


 そのとき俺はその子どものネーミングセンスに呆れたものだった。


「——えーい、きいておるのかお主ッ! 私は怒っているのだぞ!」


 途中から脱線していた思考が、陽子のあげる怒鳴り声で現実へと引き戻された。戻ると同時、いまは夏であるはずなのに、まるで冬のような空間の冷たさに俺はぶるりと身を震わせる。


 そんな俺の様子をみて陽子は腕を組むとため息を吐いた。


「……はあ、まあもう良い。時間がもったいないわい。ほれさっさとよこすのじゃ」


 そう言って、尻尾の毛や耳を弛緩させると、右手を俺の方にさし出してきた。


 俺は内心の冷や汗を悟られないように首をかしげる。


「な、何を?」

「はぁ?」


 そんな俺の仕草に、陽子はまたマグマさえ凍てつかせるような視線を向けてくる。


 これは爆発寸前だ。


 予測される事態を回避するために、俺は頭を懸命に回転させる。


 なんだ。一体なにを陽子は要求しているんだ。


 考えて、考えて、思い出す。


 そして絶望した。


「……あ! やべ、忘れてた……」


 そうだった。俺は陽子に頼まれて本を買ってくるはずだったのだ!


 かなえからの手紙に気を取られてすっかり忘れていた。


 俺は恐る恐る陽子を見る。


「な、なんじゃと……忘れた、じゃと……」


 怒鳴るわけでもなく、そう言ってただハンマーに殴られたかのようにのけぞる陽子を見て、俺は背中に脂汗が滲みはじめているのを自覚した。


 まずい、まずい、まずい!


 慌てて言い繕うための言葉を捻り出す。


「わ、わるい陽子! ……ちゃんと放課後までは覚えてたんだ。実際、チャイムがなってすぐ教室を一番に飛び出して、本屋に向かおうとした。……ただ、そのあとけっこう色々あってさ……買うの忘れてた……」


 聞いているのか、いないのか陽子はゆっくりと頭をうなだれるように沈めていく。そして次第に陽子の肩がぷるぷると震えはじめた。


 ——あ、これはもうダメだな。


 と、俺が悟ったすぐのことだった。



「え〜いッ!! 言い訳は良い!! いますぐ買ってこんかッ!! この愚か者ーッ!!」



「あ痛いっ、やめろって陽子!」


 怒髪天を衝くとはまさにこのこと。


 陽子はその山吹色の毛並みを針の如く逆立たせ、俺を烈火ごとく再度睨みつけると、どこにしまってあったのか自分の身長ほどもあるハリセンを俺に向かって振り回してきた。


 俺はあわててドアを開けて玄関から逃げ出す。


 陽子が追ってくることはない。


 背後からはドアが閉まった音だけが聞こえてきた。


 俺は立ち止まり、ふりかえってじっとドアを見つめていた。


 しばらくしてガチャリとドアが少しだけ開いた。陽子はその隙間から顔を覗かせると、ぽいっと俺に向かって何かを放り投げてきた。


「ほれ、自転車の鍵じゃ。30分以内に帰ってくるのじゃぞ」

「お、おい! 陽子!」


 飛びつこうとする俺だったが、陽子は問答無用とばかりにばたりとドアを閉めた。


 ドアが完全に閉められる直前、キッチンまで陽子の声が届いていたのか、「あ、たけるー! ついでにお醤油も買ってきてくれるかしらー!」という母親の呑気な便乗した声が聞こえてくるのだった。

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