3(部室での会話)

「それは何してんだ?」


 手紙についての話が一段落ついたところで、俺は気になっていたことを質問してみようと、かなえの机の上を指さした。そこには縦長のポスター用紙が広げられており、先ほどの会話の間にも、かなえはちょくちょく手を動かして何か作業していた様子だったのだ。


「これ? これはね、オリンピックのやつだよ」


 かなえは俺に見えるようにその紙を持ち上げてくれた。みると、白いポスター用紙の上に大きく『2021年夏』という文字がポップに彩られていた。そして中央には——どう見ても陽子がモデルの——かわいらしい狐を擬人化したイラストが大きく描かれており、オリンピックの歴史について学ぼう! という手紙とおなじような綺麗な字で書かれた看板を掲げていた。


 それで思い出した。


 確か去年の今頃、かなえは顧問の先生に頼まれてオリンピックの歴史についてまとめたポスターを何枚か書いていた。先生が事前に調べてきた歴史を、レイアウトを決めながらポスター用紙に書き写すそれなりに大変そうな作業だった。俺も手伝おうとしたのだが、絵心はなく、かといって字が綺麗でもない俺はそうそうにかなえに戦力外通告をくらったのを覚えている。そして結局かなえがひとりで完成させたそれらは、今も職員室の横にある掲示板に飾られているはずだ。


 だけど、かなえがいま見せてくれているのはその完成したポスターではなく、新しく書き直しているもののようだった。


 なんでまた書く必要が……?


 そう思った俺だったが、少し考えて、ひとつの可能性について思い当たった。


「——あーなるほど。オリンピックが延期になったから2020年って書かれてるポスターを書き直してくれって頼まれたってわけか」

「そゆこと」


 どうやら正解だったらしい。かなえは満足そうに頷いて、ポスターを机の上に戻すとまた作業を再開させた。


 かなえは机の上に散らばった様々な色の鉛筆を巧みに操って狐のキャラクターに色を塗っていく。次々ときれいに彩られていく絵を見ながら、俺はまた不思議に思った。


「あれ? でもそれなら去年のポスターの一部を修正するだけでいいんじゃないのか?」


 わざわざ新しく書かなくても、去年のやつにちょいちょいっと修正液かなんかで2020年の0を1にしてしまえば済みそうなものだ。


「うんそれはそうなんだけど……」


 と、かなえは色を塗る手を止めることなく、俺の疑問の声に答える。


「実際にやってみたら、なんか気持ち悪くなっちゃってさ。違和感がすごいの。あ、ここ修正したなってだれが見てもすぐわかる感じでさ」


 そこまで言ってからペンを止めると、かなえは顔をあげて俺をみた。そうして肩を竦めるとはにかむように続けた。


「それならいっそのこと新しくかき直しちゃえって思ってね」

「へーそんなもんなのか。俺だったら特に気にせず、適当に0を黒く塗りつぶしてその上に1を書き加えるだけで終わるけどな」

「それは横着すぎるよたける君」


 かなえは笑うが、俺としては横着になるのも当然だろうと考えていた。


 だって書き直さなければいけないのは、その一枚だけではないだろうからだ。


 確かあのポスターは、第1回目のオリンピックから次の東京オリンピックまでの各大会の歴史についてを、先生が考えたちょっとしたコメントで説明を添えたものだったはずだ。そして記憶が正しければ、1964年夏のオリンピックの説明では2020年のオリンピックの記述があったと思う。そんな風にところどころ2020年について言及されていたから、書き直す必要があるのは1枚や2枚ではきかないはず。


 その全部を書き直そうとは恐れ入る。


「実際、大変なんじゃないのか? 結構あるだろ? 書き直さなきゃいけないやつ」

「まあね。——でもそのおかげで……」


 続けようとしたかなえは、何かに気がついたようにはっとした顔になり口をつぐんだ。


「そのおかげで?」


 俺は不思議に思って聞き返す。


「……ううん、なんでもない」

「なんだよ、気になるじゃんか」


 会話を途中でやめられるほど好奇心を刺激されるものもない。 


 俺の言葉を受けて、かなえは顎に手をあてて少し俯きながら何かを考えていたようだが、「う〜ん、ま、いいかなー?」と呟きながら顔をあげると、「特別だよ?」といって微笑んだ。


 そうしてわざとらしく咳払いをしてから話しはじめた。


「ポスターを書き直すことにしたおかげで、わたしはどの部分を書き直す必要があるのか調べるために全部じっくりと読みなおすことにした」

「ああ、そうしないと抜け落ちがあるかもしれないからな」

「うん。で、だからわたしオリンピックの歴史について結構詳しくなったの」

「まあそれはそうだ。俺だって去年あのポスターを読んだときはオリンピック博士になった気でいたからな」


 オリンピックが開催された都市がどこで、それがいつだったのか去年の俺だったらその英語表記でさえ多少は答えられただろう。今はもう完全に忘れてしまっているが。


「ふふ、いまならオリンピックについてなんでも答えられる気がするよ」


 胸をはるかなえに、俺は続きを促した。


「それで?」

「ん? それだけだよ?」

「え? だってかなえさっき『特別だよ?』って言って意味深に微笑んでたじゃないか」


 俺はまだかなえがオリンピック博士になったということしか聞いていない。特別だと思えるようなことは何ひとつ聞いていないのだ。


 けれど。


「うん、特別だよ。でも、わたしが言いたかったのはこれだけ」


 かなえははっきりとそう言った。


 ニコニコと微笑むかなえを見つめながら、俺は何が特別なのかわからず、頭にはてなマークを浮かべるのだった。




 それからしばらく雑談に興じていた俺たちの耳に、チャイムのなる音が聞こえてきた。五時を告げるチャイムだった。


 いつの間にかずいぶんと時間が経っていたらしい。窓からは黄昏色に染まった光が差し込んで、俺たちの制服を黄金色に彩っていた。


「俺、そろそろ帰るよ。かなえは?」


 立ち上がった俺は、かなえにそう尋ねる。せっかくだから一緒に帰ろうと思ったからだ。


「わたしはもう少し。これを終わらせなきゃいけないしね」


 けれどかなえは机の上を指差して首をふった。雑談のあいまにも結構進んでいたのだが、まだかかりそうに見えた。


「そっか。いちおう聞いておくけど、俺に手伝えることはあるか?」

「——ありません」

「あ、ひでー即答かよ」

「だって、たける君字ヘタだもん。もし綺麗だったらもう手伝ってってお願いしてるよ」


 がっくしと肩を落とす俺をみて、かなえは苦笑した。それをみながら俺は、ボールペン字講座でも受講しようかなと密かに決意するのだった。


「それじゃあな、かなえ」

「うん」


 俺はカバンを肩に引っ掛けると、背を向けて出口に向かって歩きはじめた。


 そして扉を開けて出ていこうとしたところで、


「たけるくん!」


 かなえが大きな声を上げて、俺を呼び止めた。振り向くと、かなえはにっこりと笑顔を浮かべていて、「——また明日ね」と手を振ってきた。


「……ああ、また明日」


 俺は右手をあげて振り返すと部室を後にしたのだった。




 帰り道。暑さもだいぶ和らいだ夕暮れの中、俺は手紙を見ながら考えていた。


「全然わかんねぇな……」


 何度見てもただの数字の羅列にしか見えなかった。ヒントも意味がわからないし、ていうかこれ本当にヒントなのかと疑わしく思えてくる。日にちを文字に変えてどうしろというのか。『1日』を『いちにち』としても特に何もわからない。


「はあ……」


 その事実にため息を吐いて、俺は頭をかく。


 そのとき、


「——っと!」


 背後から突風が吹いた。その突然の強い風に俺は思わず手紙を離してしまった。風に煽られて空高く飛んでいく手紙。


「やばッ!」


 あわてて追いかけようと走り出すが、遅かった。すでに手紙の姿は俺の視界から消えてしまっていた。


「……やっちまった」


 呆然とその場でたたずむ俺。そんな俺の頭上を1羽のカラスが侮るような鳴き声をあげながら飛んでいった。


 そのあと、それでもどこかに落ちていないかと俺はあたりを必死でさがした。


 ……だが。


 結局、日が暮れるまで探しても、俺は手紙を見つけることができなかった。

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