【文学】林檎畑、花ブランコ、全自動洗濯機

 林檎畑が消えた。


 それはコーヒーにミルクが溶けていくような段階的なものでもなく、夕焼けが青い海に沈んでいくような瞬間的なものでもなかった。まさに「消えた」と表現するのがぴったりだと思われる、そんな消え方だった。

 僕は、あるはずの林檎畑がなくなった光景を目の前に、棒のように立ち尽くす。

 湿り気を含んだ風が、天蓋を失った夏草と混じり、濃厚な香りを起こす。いつもと違う風に囲まれて行き場の無くなった心が、足元に長い影を落とした。


(林檎畑にいたあの子はどこに行ったのだろう?)


 目を閉じて、彼女の姿を思い浮かべる。

 鬱蒼と茂る枝葉の影に覆われた、リンゴみたいに丸い顔。木の後ろから半分だけ覗く、淡く色づいたほっぺた。視線を向けると、真っ赤で丸い瞳が僕を吸い込むように見開く。

 あまりに非現実的な美しさを前に動けなくなった僕の前で、彼女は長い年月をかけてささくれた幹に触れた。雲のすじが山肌をすっと撫でるような手つきだった。僕はその姿が好きで、いつまでも見つめていた。


 そんな風に、彼女との出会いは思い出せるのに、彼女の声や表情、会話の内容もすっぽり抜け落ちてしまっていた。記憶の中の彼女の元にいくら足を進めても、触れることはできなかった。ちょうど花ブランコのように、何度も同じ場所に戻ってくるのだ。

 僕は花ブランコの秘密を探ろうと何度か試みてはやめた。探ろうとすると、意識がトゲに刺さったみたいに痛んだ。何か思い出したくないことがあるのだ。僕はその痛みから逃れるため、この林檎畑から離れた。


 僕はその後、平凡な学校を卒業し、平凡な会社につとめた。一日中平凡な注文伝票を処理し、平凡な毎日にのめり込んでいた。

 まるで眠っている間に全てがリセットされてるかのようだった。根もないし、どこにも結びついていない。


 そう……リセットだ。夢の中で神様がリセットボタンを押す。すると全自動洗濯機が現れる。神様は僕の頭を取り出して、洗濯機に入れて回した。洗濯機が鳴りやむまでの間、いくつもの言葉や場面が浮かんでは消えていった。

 そんな夢から覚めると、僕の頭の中は空っぽになる。僕は台所へ行き、果物カゴに積まれたリンゴを手にとって齧る。酸味を含んだ甘さが心地よかった。どこで買ったリンゴだろう。A店なのかB店なのか、何円だったのか、思い出そうとしたが駄目だった。

 僕の中からリンゴは消えた。二度と戻らない形で。



~ 「飢え渇く幽霊」より ~

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