第2話 イリス


 茫漠とした意識の中で、幾つものイメージが渦を巻く。死、炎、光、影、裏切り。いずれも現れては泡のように消えて行くその中で、一つのイメージが確固とした像を結ぶ。それは少女だ。月明かりに照らされるその髪は銀の糸のようで、例え墓場にいようとその可憐さは損なわれるものではなかった。その名は……。


「……イリス」

「わしを呼び捨てにするでない」

「いでっ!」


 急激に目が覚める。胸が痛い。また杖で突かれたのだろうか。だが、それどころではなかった。いつの間にか寝かされていた寝台から身を起こし、涙に滲む目を拭いて、今度こそ確かな既視感の尻尾を掴む。


「っ、そうだ! 君はイリスだ!」

「だから呼び捨てにするなと言っておろうが」

「〜〜っ!」


 ごん、と杖の柄で頭を叩かれて、せっかく拭いた涙がまたあふれる。だがそれどころではなかった。

 どうして忘れていたのだろう。あんなにやったゲームなのに。

 そう、ゲームだ。


 『ダンジョン・マスター』。中学の頃から、僕が寝食を忘れてやりこんだオンラインゲームだ。そのゲームにおいて、プレイヤーはスタート時に仕えるべき神格を選ぶ。そしてその神格のため、与えられた神殿であるダンジョンを守り、育て、あるいは他のプレイヤーのダンジョンを襲う。RTS、リアルタイムストラテジーなどと呼ばれる種類のゲームだ。


 そのゲームにおいて僕が最初に選んだ神格こそが、イリスだった。


「な、なんじゃ」


 もう一度、じっと見る。間違いない。整った人形のような顔、月明かりのような銀の髪。特徴的な太眉も、髑髏の刺さった折れた杖も、全部ゲームで見たままだ。


「ふん、わしに見惚れておるのか?」

「うん……」

「なっ」


 しまった、と思った時には遅かった。からかうような口ぶりに、しかしぼうっとしていた僕は素直に答えてしまう。彼女……イリスもそれは予期していなかったのか、ぽかんと口を開けて、なんとも微妙な静寂が訪れる。


 しょうがないじゃないか、と僕は心の中で叫ぶ。

 『ダンジョン・マスター』において、イリスは死と夢を司る神格だった。関わり深い魔法分野は死霊術と幻術、固有ユニットはアンデッド。いずれもポテンシャルは高いものの、『ダンジョン・マスター』のメインコンテンツだったPvP環境においては、メタがはびこっていて強力とは言えなかった。有り体に言えば、不人気な神格だ。

 にも関わらず彼女を選んだ理由の一つは、やはり見た目が好みだったからだ。


 ちら、と横目で見ると、イリスは眉を寄せ、困ったような顔をしていた。見たこともないそんな顔に、つと胸を衝かれて、思わず顔を背ける。


 ゲームでは、玉座の間の祭壇で祈りを捧げることで彼女と対話ができた。デフォルト立ち絵の老獪さが伺える不敵な笑みも信徒には好まれていたが、月間ランキングイベントの報酬を受取る時だけのデレ顔がやはり一番人気だったろう。だが、先程の顔はそのいずれとも違った。


 本当にイリスなんだ、あの顔は僕が見ても良かったのだろうか、色々な思いが渦巻いて、静寂が続く。それを破ったのは扉の開く音だった。


「お加減はいかがですか」

「あなたは……」


 そこに立っていたのは先程の鎧の女性だった。運んでいるトレイに、水差しと一緒に生首が乗っているのが異様だ。差し出されるままに水差しを受け取るが、どちらを見ればいいのかわからず、とりあえず鎧の方に顔を向ける。


「アリアです、マスター。先程は失礼しました」

「ああいや、僕の方こそ、突然気絶するなんて……」

「ほんにほんに。まさか死霊術師ネクロマンサーがデュラハンごときに気絶するとはの。情けのうて涙が出るわ」


 横からいいように言われ、閉口する。見れば、イリスはもうあの老獪な笑みに戻っていた。だが、それより気になったのはその言葉。


死霊術師ネクロマンサーにデュラハン……。やっぱりここは『ダンジョン・マスター』の……?」


 イリスの信徒の初期習得職業クラス死霊術師ネクロマンサーだ。デュラハンもイリスの信徒の守護者として最初に得られるアンデッドモンスターだった。ゲームとの奇妙な整合性を問いかけるような視線に、しかしイリスは答えない。


「さ、アリアや、案内せい。……ほれ、お主のダンジョンを見て回るとするかの」


 だが差し伸べられる手と悪戯な笑顔は真実の追求より魅力的で、僕はひとまずその誘いに乗ることにした。

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