みっしょん13 ひぐらしのなく夕暮れ頃に
――カナカナカナカナ…。
ようやく涼しくなってきた夕暮れの街に、ヒグラシが煩いほどに鳴いている。
2学期が始まって2日目のこの日、部活を終えた鈴は荒波舞の家へと向かっていた。
入学式に組分けがなされて以来2年と半が経つというのに、鈴がクラスメイトである彼女の家へ行くのは今日が初めてのことである。
これまでそうしたことがなかったのは、同じクラスとはいえ、舞と鈴がそれほど親しい間柄ではなかったからだ。
いや、鈴ばかりでなく、クラスメイトの誰一人として舞の親しい友人と呼べる者はいなかった。
別にいじめを受けているわけでも、仲間外れにされているわけでもなかったが、何か近付き難い雰囲気といおうか、自分から人を遠ざけているとでもいおうか、舞は、そんなクラスの中では浮いた存在だったのである。
では、親しくもない関係なのに、なぜ鈴が彼女の家を訪れることとなったのだろうか?
それは、今日のホームルーム後のことに遡る……。
「――ああ、安室さん!」
この日、日直の当番であった鈴が日誌を書いていると、担任の女教師・
「あ、はい。なんですか?」
「ほら、今日も荒波さん休みだったでしょ? 昨日から渡すプリント溜まってるんで、ちょっと荒波さんの家まで届けに行ってくれないかしら。早く渡した方がいい書類だし」
「ええっ! ……あ、あたしがですか?」
当然、その唐突な依頼に鈴は面喰う。
「ええ。あなた今日の日直だから。それにあなたの家から荒波さんの家まではわりと近いはずよ。荒波さんの親しい友達ってのもよく知らないし、やっぱりあなたが適任ね」
「で、でも、あたしも荒波さんの家、行ったことな…」
「地図を描いてあげるから安心して。それじゃ、そういうことで任せたわよ」
「……はあ」
鈴はなんとか断ろうとするも、けっこう強引な赤木にその
それでも一応、もう一人の日直である
「はあ? 荒波んちへ? ……そりゃ、男子の俺より女子同士のお前の方がええやろ」
の一言で断られ、また部活後、親友のあずなを誘おうとしたのだが。
「ごめん! 今日はちょっと用があるんだ。エヘヘ…ぢつはさあ、3組の
とつれなくされて、結局、鈴は一人で舞の家を訪れることとなった次第である。
「……ここか」
オレンジ色に染まる一棟のマンションの前で、担任に描いてもらったえらく大雑把な地図を見つめながら鈴は呟いた。
建物の中へ入り、集合ポストを調べると「荒波」の名が確認できる。
心もとない地図を頼りに来てはみたが、ここで間違いはないようだ。
今までまったく知らなかったが、来てみると確かにこの場所は鈴の家からそれほど離れていない距離にある。
三階建てのこじんまりとしたそのマンションは鈴の家のある町会のすぐおとなりに位置する閑静な住宅街に建っており、場所柄なのか、それとも時間帯のためか? 辺りは人っこ一人いないかのように静まり返っていた。
カナカナカナカナ…。
聞こえてくるのは夕暮れの空に響くヒグラシの声だけである。
まるで違う世界にでも迷いこんでしまったかのような、そんな淋しい黄昏時の空間を、鈴は独り、舞の部屋を目指してゆっくりと進む……。
彼女の部屋は2階の3号室だった。
「……ここで、いいのかな? ……かな?」
用心深く、もう一度ドアに付いた表札を確認し、鈴は大きく溜息を吐く。
「ハァ……」
例の〝着ぐるみ〟の件があるので、鈴は舞に対して複雑な感情を持っていたりする……。
なので、別に彼女のことが嫌いなわけでも、避けているわけでもなかったが、どうにも彼女のことを意識してしまうのだ。
あまり話したこともないクラスメイトの家をわざわざ訪れなければならないということもさることながら、それが鈴を気鬱にさせている一番の原因であった。
「……よし!」
ピンポーン……。
無意味に気合いを入れると、鈴は人差し指を勢いよく突き出し、チャイムを鳴らす。
………………。
しかし、しばらく待ってみても誰も出てくる様子はなかった。
ピンポーン……。
もう一度、鳴らす。
………………。
それでも、人が出てくるような気配もドアの鍵を開けるような音もまるでしない。
「……留守……かな?」
鈴は呟くと、人間の本能的行動でドアノブに手をかけ、一応、捻ってみた。すると、予想外にも鍵はかかっていない。
「あれ? それじゃいるのかな? ……ごめんくださーい!」
そう思い直し、今度は開いたドアの隙間から中に顔を突っ込んで呼びかけてみる。
………………。
だが、やはり返ってくるのは相も変わらず静寂だけだった。
「やっぱ留守なのかな? となると、鍵もかけずに不用心だな……」
そう言いながらも鈴自身、無断で覗いたその不用心な家の中を見回してみる。
玄関には見慣れた条坊高校指定のローファーの他におそらく舞の父母のものであろう、男ものの革靴やハイヒールなんかも並んでいる……。
3、4人の核家族が住んでいる家……そんな感じの場所である。
だが、そこで鈴は、そういえば舞の両親は今年の初め頃に亡くなって、その後、彼女は一人暮らしをしているというような話を聞いたことを思い出す。
じゃあ、この靴はその時からずっとそのまま……。
「と、とりあえず、プリントはここに置いとけばいいよね?」
何か覗いてはいけないものを覗いてしまったような怖い気がして、とにかく早く用事をすませて帰ろうとする鈴だったが、ふと、ある嫌な予感が彼女の胸に去来する。
「ハッ! まさか……」
舞の様態が悪くなり、意識を失って倒れているのではないかと急に不安になったのだ。
「し、失礼します……」
そう思うや鈴は乱暴に靴を脱ぎ捨て、家の中へと急いで駆け上がる。
そして、まったく人のいる気配のしないその家の中、舞の姿を探して勝手に歩き回った。
落ち着いた灰色のカーぺーットとカーテン、こじんまりとしたキッチン、4人がけの机……上がった家の中はやはり小家族の住んでいるマンションの一室といったような雰囲気である……いや。〝住んでいた〟と言うべきか。
しかし、いくら今は一人暮らしだといっても、普通、人が住んでいる場所というものには多少なりと生活感があるものである。
だが、奇妙なことにこの家からは一切そうしたものが感じられないのだ。
キッチンの皿や鍋、まな板などは整然と並んでいるが、それらがここ最近、使われたような形跡はまるでなく、ステンレス製の流しもしばらくの間、水に濡れたような様子がまったく感じられない。
窓もずっと閉め切られているのか、なんだか部屋の中の空気が淀んでいるような気もする……。
例えるならば、ずっと留守にしていた家にでも入ったような気分だ。
「荒波さーんっ!」
そんな、どこか薄気味の悪い感じすらする家の中を、リビング、キッチン、ベッドの2つ置いてある両親のものと思われる寝室と、鈴は彼女の名を叫びながらドタドタと駆け回ったが一向に舞の姿を見つけることができない。
……やっぱり、ただ鍵をかけ忘れただけの留守宅なのだろうか?
「荒波さ……」
しかし、そう思いながら入った最後の部屋で鈴は急に立ち止まった。
そこに、舞の姿はあったのだ……。
自分のベッドの上で、すやすやと眠っている状態で。
あるのは装飾性のない勉強机とパイプベッドだけの、ほとんど家具らしい家具のない、年頃の女の子の部屋とは思えないくらいに殺風景な部屋である。
ただ、壁のフックに掛る見慣れた条坊高校の制服だけが無機質な部屋に色を添えており、そんな空間に置かれたベッドの上で、舞は静かな寝息を立てて眠っていたのだった。
頭には包帯が巻かれているが、その顔は穏やかで苦しんでいるような様子もない。
「…………ハァ…」
その姿に、自分の勝手な心配が外れた鈴は大きく安堵の溜息を吐いた。
がその時、鈴の立てた騒音に覚醒したのか、床の上の舞はゆっくりとその赤い目を開く。
「いっ!? ……あ、あの、その…」
横たわったまま、ぼんやりと見つめる舞の瞳と目が合い、鈴はこの状況をどう説明したものかと慌てふためく。
「……何か用?」
しかし、舞は何事もなかったかのように、いつもの抑揚のない調子でそう鈴に尋ねた。
不法侵入を咎められたり、強盗と間違われて騒がれたりせずによかったにはよかったのであるが、彼女のその言葉は今のこのシチュエーションにはあまりにも場違いな台詞である。
突然、自分の部屋に他人が立っていたりしたら、普通、悲鳴の一つでも上げるというのがまっとうな女の子の反応だと思うのだが。
「………………」
その常識との齟齬を感じせせる反応に面喰っていると、その間に舞はベッドの上に起き上がる。
被っていたタオルケットが剥がれ、現れた白い下着姿の舞の左足と右腕には痛々しく厚いギブスが嵌っていた。
顔の色艶は普段と変わりないが、それを見るといまだ彼女が重傷であることを改めて認識させられる。
舞が新学期早々学校を休んでいるのも、きっとこの怪我のせいなのだろう。
「……なんの用で来たの?」
鈴の顔を真っ直ぐに見詰めたまま、舞は無表情にもう一度尋ねる。
「……あ、いや、その……そう! 先生に溜まってたプリント渡すように頼まれたんだ!」
ようやく我に帰った鈴は、下手な言い訳でもするかのように慌ててそう答えた。これでは、むしろ「自分は不審者です」と言っているようなものである。
しかも、普段からそうやって寝ているのか? 舞はシミ一つない美しい乙女の肉体に純白のブラとパンツを着けただけの、なんともはや、あられもない格好だ。
女の子同士なのになんだか鈴は恥ずかしくなって、彼女の美しい肢体から思わず赤くなった顔を背けてしまう。
「……そう。ありがと」
しかし、やはり疑うことも問い詰めることもなく、舞はただそれだけの返事を返す。
「……あ! う、ううん。別にお礼なんて………」
礼を言われたのでとりあえず答えるも、後の言葉が続かず、再び鈴は沈黙してしまう。
「あなた、〝あれ〟を着るの?」
その沈黙を破ったのは舞だった。
「えっ……?」
突然訊かれ、なんのことだかわからず鈴は聞き返す。
「あなた、わたしの代わりにぬらりんの着ぐるみを着るように頼まれたんでしょう? 東郷副司令から聞いているわ」
「あ、ああ、そのこと……」
簡潔に説明され、ようやくなんのことを言っているのかわかった鈴だったが、今度はまた別の理由で言い淀んでしまう。
別に依頼を受けるも断るも、それは鈴の自由であるはずなのだが、なんだか自分の取った選択が彼女に対して後ろめたいような、そんな感覚に捉われたのである。
それでも、自分が正しいことを確かめるかのように鈴は言葉を発する。
「断ったよ……あたし、ものすごいあがり症だし、着ぐるみ着て大勢の前に出ることなんか絶対無理だし……」
「そう……」
だが、舞から目を逸らして答える鈴に以外にも彼女はそれしか言わなかった。
何かイヤミを言われるんじゃないかと身構えていた鈴は肩透かしを食らってしまう。
「それなら別にいいわ。ぬらりんはわたしが着るから」
「えっ?」
そして、その重症の彼女が言うには相応しくない言葉に、鈴は図らずも舞の方を振り返って声を漏らした。
「……で、でもあなた、そんな体じゃ……」
「大丈夫よ。もう動けるから。痛み止めを飲んでおけば問題ないわ」
「い、痛み止めって……他の人に任せばいいじゃない? あなたやあたし以外の人だって、着ぐるみを着れる人はたくさんいるでしょう?」
「それでも、総合的に見て着ぐるみの装着に最も適しているわたしの方が、他の人よりうまくぬらりんを操縦できるわ。安心して。例えまた内部温度が限界を超えたとしても、今度は最後までちゃんと着続けるから」
「……どうして……どうしてそこまでして着ようとするの? だって、それ着てそんな大怪我まで負わされたんだよ? それなのにどうして……」
無表情のまま、何も問題はないかのようにものすごいことを言う舞に、鈴はなぜか熱くなって声を荒げてしまう。
彼女のその態度が、なんだか自分を責めているような、着ぐるみを着ることから逃げた自分を侮蔑しているような、そんな感じがしたのである。
「あなたこそ、なんで着ないの?」
だが、舞は質問に答える代わりに、逆に鈴へ問い返した。
「えっ?」
「あなたこそ、なんで依頼を受けないの? みんなに期待されているというのに」
「だってそれは……あたし、あがり症だし……」
舞の問いに、鈴は逸らした目を落ち着きなく左右に揺らし、たじろぎながらそう答える。
だが、そう答えつつも、それがただの言い訳であるように、なぜだか鈴は思ってしまう。
「わたしは着るわ。みんながわたしに期待をかけてくれているから……わたしがこんな風になってしまった以上、わたしと同様に最適な体を持つあなたに任せようと思っていたけど、その様子では無理ね。やっぱり、ぬらりんにはわたしが入るわ」
「そんなこと……」
そんなこと、怪我してるあなたにはさせられない……そう言いかけた鈴であったが、それ以上、彼女は言葉を続けることができなかった。
「東郷副司令にはわたしの方から言っておくから安心して。それじゃ、わたし、もう少し寝るから。プリントは机の上に置いておいて」
言い淀む鈴に、舞はいつもの淡々とした口調でそう告げると、タオルケットを羽織ってまた横になってしまう。
「………………」
そんな舞に、結局、それ以上何か言い返すこともできず、鈴は押し黙ったまま、頼まれたプリントとすっきりしない心を机の上に残して、その殺風景な部屋を後にした……。
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