みっしょん11 あの日の悪夢

 夏休みも終わり、二学期の始業式が行われた八月末のある日の放課後、安室鈴はやはりトラックを走っていた。


 走り抜ける鈴を目で追い、糸矢あずなもいつも通りにストップウォッチを押す。


「…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……」


「11秒90。うーん…やっぱ伸び悩んでるねえ。最近、何かあった?」


 肩で息する鈴のもとへ歩み寄ったあずなは、タイムウォッチを見つめながら尋ねる。


「……ハァ……ハァ……ううん…ハァ……ハア……別に……何もないけど……」


 その問いに、鈴は特に思い当たる節はないというように、荒い息の合間を縫って答えた。


 しかし、何が原因なのかわからないながらも、ここのところずっと鈴はなんだか悶々としていて、どうにも気が晴れない感じを確かに覚えている。


 こんな風になったのは、いったい、いつからだったろうか?


 鈴は心の中で自分に問いかける。


 思い起こすに、それはおそらく一週間ほど前からのことだ……その頃、気になるような出来事って何かあったろうか?


 そう考え、記憶を掘り起こそうとした鈴の脳裏を不意にある映像が過った。


 ……ああ、そういえば、あの子。ちょっと前までは部活の時よく見かけてたのに、ここんところずっと見てないな……確か、今日も学校休んでいたような……。


 彼女は、自身を悶々とさせている犯人の核心に迫ろうとしていた……が、その寸前。


「やあ、安室鈴さん」


 彼女の思考を遮る、そんな声が聞こえた。


「あなたは……」


 振り向くと、そこにいたのは以前、自分をスカウトに来た、あの3年生の先輩だった。


「僕のこと、憶えてるかな?」


 だらしなく開けたシャツの襟にゆるゆるにネクタイを結んだ彼は、照りつけるオレンジの西日の中、どこか気だるそうな様子で彼女に尋ねる。


「ゆるキャラ同好会副会長の東郷さん……でしたよね?」


「ちゃんと憶えててくれたんだね。うれしいよ。ま、今はゆるキャラの副長だけどね……ちょっと君に話したいことがあるんだけど、デートに付き合ってもらえるかな?」


 東郷は前回同様、ふざけた調子でそう鈴を誘ったが、なんだか今日の彼はどこか疲れているように彼女の目には映った。


「ちょっと、またですか!? その話は以前にきっぱりとお断りしたはずです! レイに変なちょっかい出すのやめてください!」


 鈴が返事をするより先に、あずなが前に立ちはだかって彼女を守るようにして告げる。


「いや、それがね。いくら君みたいなカワイイ女の子の頼みでも、今回に限っては素直に聞いてあげるわけにもいかないんだよ。こちらも少々事情が立て込んでいてね……」


 しかし、あずなにきつく睨みつけられても東郷は引き下がろうとしない。


 それにその口調は相変わらず冗談めかしているが、やはり妙な疲労感が彼のだらけた体からは滲み出ている……。


 もしかして、何かあったのだろうか?


「どんな事情か知らないですけど、ダメなものはダメです! だいたい着ぐるみに入る人は荒波さんに決まったんじゃないんですか? 時々その訓練で走ってるの見かけたし」


 ……?


 あずなの言ったその名前に、鈴は何か不安めいたものを感じる。


 ……東郷さんのこの様子……まさか、あの子に何か……。


「いや、まあ、それはそうだったんだけどね……」


「だったらレイにもう用は…」


「あ、あの! ……お話だけなら……聞いても、いいですよ?」


 彼女を庇うあずなを他所に、気が付くと鈴は思わずそんな返事を口にしていた。


「レイ……」


 あずなが驚いた顔で鈴の方を振り向く。


「ごめん、シアちゃん。あたし、ちょっと話を聞いてくるよ……」


「レイ……」


 いつにない鈴の様子にあずなは心配そうな表情を浮かべ、もう一度彼女の名を呟く。


「大丈夫。話聞くだけだからさ……」


 そんな心優しい親友に鈴は静かに微笑み返し、あずなを安心させようとする。


「そうか。ありがとう……それじゃ、ちょっと場所を変えようか……」


「はい……」


 疲労を滲ませた顔で礼を言う東郷に頷くと、鈴は彼について歩き出した――。




 グラウンドから校舎の方へと二人で移動し、焼けつくような夏の西日を避けられる体育館裏の日陰に逃げ込むと、鈴の方から先に口を開いた。


「――あ、あの……わたしに、お話というのは……」


「君も、うちの着ぐるみ装着者が同じクラスの荒波舞さんになったの知っているね?」


 少しの沈黙の後、東郷はおもむろに話し始める。


「あ、はい……」


「その荒波舞が大怪我を負った」


「えっ……?」


 鈴は小さく驚きの声を上げる。


 しかし、内心彼女は自分の予感が的中したような、そうであることをすでに知っていたかのような不思議な感覚を覚えていた。


 今、鈴の脳裏には、段ボール箱を繋ぎ合わせた疑似着ぐるみに身を包み、グラウンドの周りをランニングしていた荒波舞の姿が浮かんでいる……。


 時折見かけるその姿がなぜか気になって、いつの間にやら眺めていることが多かったのだ。


「不幸な事故だった……完成した着ぐるみを着てのPRも兼ねた校外長時間走行実験の最中にね、内部の気温が上昇し、限界を超えた彼女は熱暴走を起こしたんだ。暴走した彼女は転倒し、そのまま河川敷の堤防を転げ落ちた……左足と右腕の骨折に全身打撲だそうだ。9月9日のゆるキャラ選手権にはおそらく出場できないだろう……」


「……そう……ですか……」


 東郷の話に、鈴はなんと答えればいいのかわからず、とりあえずそう短く呟いた。


「そこで、君に改めて頼みたいんだが……僕らのゆるキャラ〝ぬらりん〟の着ぐるみに入ってくれないかな?」


 簡単な状況説明がすむと、東郷はいつになく真剣な眼差しで鈴を見つめ、案の定、彼女に着ぐるみ装着者の件をもう一度依頼する。


「……それは、前にお断りしたはずです」


 その視線を受け止め切れず、鈴は目を逸らすと小さな声でそう答えた。


 話の流れからそう来るだろうことは彼女にも予想できたが、やはり聞けぬ相談だ。


「君があがり症なのはよくわかったよ……でも、着ぐるみの中なら衆人の目に晒されることもなく、君も普段の自分でいられるはずだ。それに人の目を気にせず、なおかつ多くの人の前に立てる着ぐるみは、あがり症を克服するいいリハビリにもなると思うんだ。どうだろう? ここは君自身のためにも一歩足を前に踏み出してみる気にはならないかな?」


「……それでも、ダメなんです……直接人に見られなくても、大勢の人の前で何かするってだけで、あたし、あがっちゃうんです……」


 両の瞳を左右に落ち着きなく揺らし、しばし逡巡した後、鈴は伏せ目がちに呟く。


 そう答えながら鈴は、自分があがり症になってしまったその直接の原因を思い出していた……それは、彼女がまだ小学校3年生の時のことだ。


 その頃までの鈴は、今では想像もつかないくらいに物怖じしない、音楽会や学芸会などでも率先して大役を引き受ける出たがりで積極的な女の子だった。


 しかし、3年生の学芸会で友人の村井戸乃彩むらいどのあとコンビを組んで漫才をやった時のこと。


 鈴はボケで、乃彩はツッコミだったのだが――。




「――部下の靴はブカブカ!」


「なんでやねん!」


 ………………シーン。




 彼女達は思いっきりすべった。教室に広がる静寂と寒い空気……背中を伝うなんとも心地の悪い冷たい汗……。


 あの時の静けさを、鈴はまだ鮮明に憶えている。


 それまで、彼女は大勢の前でも大役をそつなくこなし、そんな消えてなくなってしまいたいくらいに恥ずかしい、身も凍りつくような寒い経験をしたことなど一度としてなかった。


 それ故に、そのたった一度の経験は鈴の中で大きなトラウマとして残った。


 彼女があがり症になったのはその時からだ。


 それ以来、彼女は舞台に上がる度にその嫌な失敗を思い出し、足がすくんで口も回らないようになってしまった。


 いや、舞台ばかりか運動会やマラソン大会、参観日の授業で発言する時ですら、衆人の目を引く状況にあっては極度に緊張してしまい、普段通りに振る舞うことができなくなってしまったのである。


 こうして、それまでの彼女とは似ても似つかない程の、超あがり症で内気な少女・安室鈴は誕生した。


 今では以前の活発だった頃の話をしても、みんな嘘だと言って誰も信じてはくれないくらいのものだ。


 ……そういわれてみれば、なぜその頃までの自分は、そんな出たがりで物怖じしない積極的な子だったのだろう?


 鈴はふと、そのような疑問に捉われる。


 だが、いくら思い返してみても、それ以前の記憶はどこか朧げで、どうしてそんな子だったのかを思い出すことはできなかった。


 何か、それには大事な理由があったような気もするのだが……。


 そう。何か大切なことを忘れているような……。


「……どうしても、ダメかな?」


 とても長く感じられながらも、ごく僅かな束の間にそんな思いを巡らしていた鈴に、東郷が再度尋ねてくる。


「……はい……そういえば、そもそもなんであたしじゃないといけないんですか? 他にもっと適した人がいるように思えるんですけど……あたしみたいにあがり症じゃない、むしろそういう目立つことの好きな人が……」


 鈴はやはり断ると、逆に東郷に尋ねた。よくよく考えれば、それも大いに疑問である。


「まあ、確かに君の言う通り、着ぐるみに入る人間は他にも万といるけどね。極論すれば、別に誰でもいいと言ってもいい……だけど、全校生徒のデータをもとに検討した結果、この学校内で一番適した体質と運動能力を持った人間は、君と荒波舞さんの二人であることがわかったんだ。僕らはこのゆるキャラ選手権にすべてをかけている。できれば君のように最も適した人間に僕らの着ぐるみを託したいんだよ」


「そんな……あたし、全然適してなんか……あがり症だし……」


 鈴は目を逸らし、期待を寄せる東郷にそう呟く。


「いいや、身体的特徴だけじゃない。僕は君に会って確信したよ。君には何かがある。うまく言えないんだけど……そう。君は他の人間にはない、この大舞台を成し遂げられる何かを持っているように感じるんだ!」


 だが、東郷は諦めることなく、むしろ言葉に熱を帯びて語り続ける。


「お、大舞台だなんて、それこそあたし……」


「それに君は心の奥底で、本当はこの役をやってみたいと思っているんじゃないのかな? 君を見ていると、僕にはどうしてもそんな気がしてならないんだけどな」


「…!?」


 さらに問いかける東郷のその言葉に、鈴は一瞬、ハッとした。


「そ、そんなことあるわけありません! これで、失礼します……」


 そして、早口にそれだけを言って頭を下げると、彼との話を強引に終わらせ、足早にその場を後にして行く。


 ……だが、鈴は東郷の強引さに怒ったのでも、でたらめなことを言う彼に腹を立てたのでもない。


 何か、彼に自分の心の奥底を見透かされたかのような、そんな気がしたのだ……そんなこと、絶対にないと思っているのだけれども。


「9月9日だ! その日に伝遷都予定地公園でご当地キャラを決める選手権大会が開かれる! その日まで君のことを待っている! もし、その気になったらいつでも来てくれ!」


 去り行く鈴の背中に、東郷は大声で叫びかける。


「………………」


 それでもそんな彼の方を振り返ることなく、鈴はもと来たグラウンドの方へと黙って歩いて行った――。

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