みっしょん8 安室、逃走

 同日。それより数10分後の条坊高校グラウンド……。


 茶色の地面に白いラインで描かれたトラックを、安室鈴は全速力で駆け抜けていた。


 小柄な体に水色のランニングと白い短パンという露出度の高い軽装の鈴は、赤みのあるショートカットを激しく揺らしながら、渾身の力を込めつつも美しいフォームで疾走する。


 ……カチ。


 彼女が100メートルを駆け抜けたところで、ゴールに立っていた赤ジャージ姿の少女がタイムウォッチのボタンを押す。


「……ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…」


 全力で走り抜け、徐々にスピードを落としつつ足を止めた鈴は、両膝に手を当てて肩で荒い息を吐いた。


「すごい! すごい! 11秒72、また記録更新だよ!」


 そんな鈴に赤ジャージの少女が、声を弾ませて駆け寄って来る。


 セミロングの、ブロンドに近い栗毛色の髪をした彼女の名前は糸矢しやあずな。鈴の親友にして陸上部のマネージャーである。


 そして、言うまでもなく鈴は陸上部の部員だ。


「ほんとに? やったーっ! また全国ベストのタイムに近付いたよ!」


 あずなの告げる自身のタイムに、鈴は諸手を挙げて無邪気に歓喜の声を発する。


「でも、これが本番ならねえ……普段はこんないいタイム出すのに、〝レイ〟は大会とか、そういう本番だとからきしダメだからなあ……」


 しかし、あずなは喜ぶ鈴を見つめながら、不意に困ったような顔になって呟く。


 ちなみに〝レイ〟というのは鈴のことだ。なぜか鈴の友人達は、彼女の名前をそう音読みにする。


「もう、それを言わないでよお……仕方ないじゃん。あたし、大勢の人の前だとあがっちゃって力が出ないんだもん」


 あずなの嘆きに、鈴はもじもじとしながら不貞腐れたようにそう答えた。


「ん~なんでかなあ……わたしが見てても別にあがらないのに……これであがり症じゃなかったら、全国制覇も夢じゃないのにねえ」


 口を尖らす鈴に、あずなは腕を組んで真剣に考え込む。


「シアちゃんは知ってる人だからいいんだよ。あたしの方こそ、なんでこんなにあがっちゃうのか知りたいよ……」


 なぜか音便変化させて〝シア〟と呼んでいる友人の疑問に頬を膨らまし、さらに口を尖らす鈴だったが。


「おーい! 安室ーっ!」


 鈴の名を呼ぶ声がどこからか聞こえてくる。


 二人にとってはよく聞き慣れた声だ。


 鈴とあずなは声の聞こえた方を振り返る。


 すると、陸上部員がそこここに点在するグラウンドを横切って、グレイの短パン・ランニング姿の陸上部部長・待井留太まちいりゅうたと、もう一人、制服を着た見知らぬ男子生徒がこちらへ歩いてくるのが目に映った。


「せ、せ、せ、先輩……」


 だが、待井の姿を見た瞬間、なぜか鈴は顔を真っ赤にして直立不動に硬直してしまう。


「あ、そういえば、知ってる人間でもあがっちゃう人が一人いたな」


 そんな鈴をあずなは愉しげに見つめ、イヤラしい目つきになるとニヤリと笑った。


「安室、ちょっと話があるんだけど、いいかな」


 その間にも見知らぬ男子とやって来た待井は、鈴の前で立ち止り、そう声をかける。


「は、は、は、は、はい……な、な、なんでございましょうか?」


 対して鈴は固まって俯いたまま、待井の顔も見ずに変な言葉使いで訊き返した。


「くくくくく…」


 その様子を、あずなは口に手を当てて、やはりおもしろそうに笑う。


 しかし、おもしろがっているのはあずなだけで、鈴としては大変に深刻な事態である。


 現在、彼女は待井に話しかけられ、ものすごくあがっている。普段もあがり症の鈴であるが、そのあがりようは尋常ではない……。


 言わずもがな。ご察しの通り、その理由は彼女が待井に恋をしているからだ。


「本当はこんなもの取り次ぎたくもないんだが、このゆるキャラ同好会の副会長さまがお前に用があるんだとさ」


 その恋する先輩は思いっきり嫌そうな顔をして、となりに立つ男子を彼女に紹介した。


「やあ、こんにちは。僕はゆるキャラ同好会副会長の東郷平七郎っていうんだけどね。アムロ…もとい、安室鈴やすむろすずさん。僕は君を臨時会員としてスカウトに来たんだよ」


「す、す、す、スカウト?」


 待井が目の前にいるのであがったまま、鈴は東郷にも変な調子で尋ねる。


「うん。濡良市のご当地キャラを決める選手権大会にうちも参加することになってね、君にはそのゆるキャラの着ぐるみに入る役をしてもらいたいんだよ。なあに、会員になるとは言っても期限付きの臨時会員だからね。陸上部を辞めることもない。ああ、心配しなくても部長さんには今、話つけといたから大丈夫だよ」


 東郷は挙動不審な鈴をまるで気にすることもなく、早口にそう簡単な説明をした。


「俺としては非常に納得がいかないんだけどな。どうやらこの引き抜きには生徒会の正式な許可も下りてるらしくて、部としては何も言えないんだ……くそっ! 公権力を利用するなんて卑怯だぞ! 恥を知れ! 恥を!」


 待井の方も鈴に注意を向けることなく、罵声を浴びせながら東郷の話に注釈を加える。


「失礼だな。僕らは正式な手続きを踏まえただけのことだよ。文句があるんだったら、生徒会に直接言うことだね」


「く~っ…あの血も涙もない生徒会には誰も逆らえんと知っておいてぇ……安室っ! あとはお前次第だ! どうなんだ? お前はこの引き抜き、受ける気はあるのか?」


 素知らぬ顔で生徒会の許可書をひらひらと手で振る極悪非道な東郷に、待井は悔しそうに地団駄を踏むと鈴に詰め寄り、鬼気迫る声で彼女に尋ねた。


「ひっ…!」


 突然、憧れの先輩の甘いマスクが目と鼻の先に迫ったため、鈴は驚き、顔を真っ赤に上気させて大きく後に仰け反る。


「あ、こら、本人に圧力かけるようなことするんじゃない! 彼女も怯えてるじゃないか。それは明らかに本人の意思決定を歪める部の介入だ。生徒会の許可書をないがしろにする違反行為とみなすぞ? そんな真似をしてタダですむと思ってるのか?」


「うっ……」


 権力を笠に着た東郷の脅しに、待井は短い呻き声を上げて沈黙する。


「さ、これで君を縛る者はいなくなった。心配せずに君の素直な気持ちで選んでもらっていい。どうだい? 将来、この濡良市のご当地キャラになるであろうゆるキャラの着ぐるみを着て、栄えあるこの町のスターになってみる気はないかい?」


「わ、わ、わたし……そ、そんな大役、で、できません……」


 改めて誘いの言葉を述べる東郷に、鈴は震える声でなんとかそれだけを伝える。


「ハハハ、そんな大役だなんて。ああ、この着ぐるみに入る役はもう一人いるんで、そんな責任感じることないよ? まあ、君はそのもう一人のの控えって感じで、簡単な気持ちで引き受けてくれていいからさ」


 しかし東郷は軽やかに笑うと、なおも彼女の説得にかかる。


「ね、だから頼むよ。僕らには陸上で鍛え上げられた君の美しくも強靭なその肉体が必要なんだ。あ、変な意味じゃないからね……とにかく、無理は言わないから軽いノリでやってみてよ。そう言えば、君は少々あがり症があるようだけど、その点も大丈夫。着ぐるみの中なら、どんなに〝大勢の人間を前にして〟も君の姿は見えないから」


「いっ…!」


 それを聞いた途端、鈴は俯いたままにしていた顔をひどく引き攣らせる。


「……なんです」


 そして、下を向いたまま、消え入るような声で呟いた。


「えっ?」


 聞き取れず、東郷は耳を傾けて聞き返す。


「……それが……なんです」


「ん? 何?」


 またも聞き取れず、もう一度、東郷は聞き返す。


「そ、それが無理なんですうっ! あ、あたし、お、大勢の人間の前で、そ、そ、そんなことできませ~んっ!」


 今度は大声で叫ぶと、鈴はくるりと皆に背を向け、突然、走り出してしまう。


「えっ……?」


 いきなりのことに、東郷はキョトンとした顔で目をパチクリとさせる。


「レイっ!」


 高速で走り去る鈴の背中を、それまでずっと黙って話の成り行きを見守っていたあずなが慌てて呼び止める。


 だが、鈴は足を止めることなく、風のようにグラウンドを駆け抜けると校舎の方へ消えて行った。


「もう! いったいなんなんですか? レイは極度のあがり症なんです! それなのにそんなことさせようだなんて……もう二度とレイには近付かないでください!」


 逃げ出した鈴に代わり、あずなは東郷の前に出て激しく抗議すると、鈴の後を追いかけて自身も駆け出して行く。


「ああ、いやあ……あがり症というのはデータで見ていたけど、まさかこれほどだったとは……ねえ?」


 後に残された東郷は予想外の展開にそう呟くと、他に誰もいないので、なんとなくとなりに立つ待井に相槌を求める。


「い、いや、俺は別になんも言ってないぞ?」


 不意に振られ、待井はプルプルと首を横に降ると、自分にはまったく非のないことを訊いてもいないのに慌てて弁明した。

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