みっしょん7 ファースト・スチューデント
――バシャーン…!
条坊高校の一角に建つ室内プールに、激しく舞い上がる水飛沫の音が木霊している。
今は授業中ではなく放課後である。いや、それ以前に今日はまだ一学期が始まって最初の火曜であり、水泳の授業が行われる夏までにはまだほど遠いというのに、プールの中では20人近い競泳水着姿の男子女子が各々のペースで懸命に泳いでいる。
そう……現在、この室内プールでは、季節を問わない水泳部の練習が行われているのだ。
「………………」
そんなプールサイトの片隅で、一見、スク水にも似た紺の競泳水着に白のキャップを被った荒波舞は、色白の足を体育座りにたたんで、ぼんやりと皆の泳ぐ姿を見つめていた。
彼女も先程100メートルを泳いだばかりであり、青みがかったボブの髪や水着から垂れる水滴が、撥水性コーティングを施した白い床のタイルをまばらに濡らしている。
……だが、熱心に泳ぐ部員達を見つめる彼女の瞳は、他の者に比べて、どこか活気のないものだった。
「………………」
舞はただなんとなく部活動の風景を眺めながら、自分が今、なぜ、ここにいるのかを考えている。
舞が水泳部に入ったのは両親の意向であった。
二人は舞をスポーツ選手にでもしようとしていたのか? 幼い頃より様々競技を彼女にさせてきた。
中でも特に水泳には力を入れており、彼女は中・高ともに水泳部に入部させられ、修練を積んできたのである。
一方、舞もそんな両親に背くことなく、全国大会で好成績を残すほどによくその期待に応えた。
しかし、それは親を恐れるあまりに逆らえない子供というのとも、親を尊敬し、その考えには従順に従うよい子供というのとも少し違う。
舞の父母は彼女がスポーツでよい成績を出すことだけに興味を持っており、それ以外の彼女のすること一切になんの興味も持ってはくれなかった。
故に、小さな頃よりそんな環境で育った彼女にとっては、親の期待に応えることだけが親との繋がりを確かめる唯一の術であり、それが彼女の生きる目的のすべてであったのだ。
だからこそ、舞は全国大会に出場できるまでに水泳に没頭した。
「………………」
しかし、今の舞は先程のクロールで蓄積された疲労が消えてもなお、座ったまま次の一本を泳ごうとはしない。
よい成績を残し、親に褒めてもらうことだけが舞の生き甲斐だった。その時だけが、自分の存在意義を確認できる一時であった。
…………だが。
舞の両親は今年の初めに、ともに勤めていた研究所の事故であっさり死んでしまった……一瞬にして、彼女の生きる目的は失われてしまったのである。
その時、彼女は不思議と悲しいとは思わなかった。きっと彼女と両親との関係が、そうした感情を生むような一般的な親子関係ではなかったからであろう。
ただ、その代りといってはなんだが、舞の心にはぽっかりと穴が空いてしまったような、そんな大きな喪失感が生まれた。親に褒められることだけに自分の存在意義を見出していた彼女にとって、両親の死は自分の生きている意味を完全に見失うことでもあったのだ。
だから、どんなに努力しても褒めてくれる者のいなくなった〝水泳〟という行為も、舞にとっては無意味なものとなった。
だから、今、彼女はこうして無意味な水泳に本気で取り組むこともなく、無気力に膝を抱えて座っているのだ。
それでもまだ彼女が水泳部に残っているのは、ただの惰性である。
もちろん、全国へ行った実力を持つ彼女に学校や水泳部も期待をかけてはくれる。
かけてはくれるが、それは幾人かの優秀な選手にかけている期待の一つであって、絶対、彼女でなければならない、彼女だけにかけられていた両親の期待とはまるで違う。
舞にとって、そんな親以外の期待になんの意味もない。それは、彼女の存在意義を確かめるものにはならなかったのである。
だから、一見これまで通りにコーチの課したメニューに則って練習に励んでいるように見えても、それはただの惰性に従って行っている、無意味で無機質な行為にすぎないのだ。
だから今、彼女がここにいるのもやっぱりただの惰性である。
「………………」
そうした惰性のままにぼんやりと部活風景を眺めていた舞の視界に、ふと、プールを挟んだ向こう側で部長と何か言い争いをしている男子生徒の姿が映り込む。
誰……?
それは、舞の見慣れぬ生徒だった。全員水着姿のプールにあって、制服のブレザーを着たその男子生徒は妙に目立つ。
ここからでは声が聞こえず、話している内容まではわからないが、水泳部部長の碇屋源五郎はかけている水中眼鏡を苛立たしげに上げ下げし、その見知らぬ男子生徒に何かをしきりと訴えている。
対する男子生徒の方は非対象に澄ました様子で、部長の猛抗議を難なくさらりとかわしているように見える。言い争いというよりは、部長の碇屋が一方的に吠えかかっていると言った方がいいのかもしれない。
そうして舞がしばらく二人を覗っていると、突然、男子生徒の差し出した何かの紙を見た碇屋が、頭を抱えて天を仰ぎ、呻き声を上げるような動作をして見せた。
他方、そんな碇屋には目もくれずに捨て置くと、男子生徒は辺りを見回し、何かに狙いを定めたかのように舞のいる方へと歩いて来る。
初め、舞は彼の目指しているものが自分以外の他の水泳部員であると思った。
しかし、男子生徒は珍しい訪問者に奇異の眼差しを注ぐ部員達の間を縫って、真っ直ぐ舞のもとへと近付いて来るのである。
誰……?
舞は再び心の中で呟いた。彼女には、その男子生徒との接点にまるで心当たりがない。
「やあ、君が2年2組の荒波舞さんだね」
だが、彼はそのまま舞の前まで来ると、顔を覗き込むようにして彼女の名を口にした。
「誰……?」
今度は実際に口に出して舞は尋ねる。
「はじめまして。僕はゆるキャラ同好会の副部長、3年2組の東郷平七郎って者だよ」
「……何?」
爽やかな笑顔で自己紹介する東郷なるその人物に、舞は座ったまま、抑揚のない声で短くまた尋ねる。
「君のスカウトに来たのさ。ゆるキャラ同好会の臨時会員としてね」
「……そう。でも、ごめんなさい。わたし、興味ないわ」
質問に答える東郷だったが、そこまで聞いただけで彼女は無表情のままに早々とその誘いを断った。
「いやあ、まだ詳しい説明もしてないのにそりゃつれないなあ……とりあえず話だけでも聞いてみてよ。ここじゃ騒がしくてなんだから、ちょっと外に付き合ってくれるかな?」
「……ええ。いいわよ。少しだけなら」
それでもめげずに誘う東郷に、舞は僅かの逡巡の後、まるですべての物事に興味のないような声で答えると、ようやく小さくも重い腰をプールサイドの隅から上げた――。
「――というわけで、君には僕らの作ったゆるキャラの着ぐるみに入ってもらいたいんだよ。どうだい? 水泳部の部長にはさっき生徒会の許可書を見せて了承もとってあるし」
室内プールを出てすぐの廊下で、舞は相槌を打つこともなく、ただ黙って先程の話の続きを東郷より聞いた。
廊下は暖房があまり効いていないので、説明を受ける舞は身体が冷えないよう、オレンジ色の部のジャージを上半身に羽織っている。
「それでもごめんなさい。わたし、やっぱりそういうの興味ないから」
だが、詳しい説明を受けた後も、やはり舞は取り付く島もないくらいに短く、抑揚のない声で東郷のスカウトを断る。
舞は別にこのまま水泳部に居続けたいわけでもなかったが、それと同時にゆるキャラ同好会のスカウトを受け、水泳部を離れたいわけでもなかった……。
要は水泳部に残っても、ゆるキャラ同好会に入っても、どちらでもいいし、どうでもよかったのである。
そうした時、人は新たな変化よりも惰性に流される方を好む傾向にある。その方が楽だからだ。
だから、舞は東郷のスカウトを断り、現状のままでいることを選択したのだった。
「ハァ…相変わらず情け容赦のない返事だねえ」
この感情の起伏が少なく、同世代の女子とはどこか違う雰囲気を持った不思議少女に、東郷はいつになく悪戦苦闘気味である。
「でも、君にかける期待は水泳部よりも僕らの方が遥かに大きいと思うけどね」
しかし、事前に彼女に関しての情報をすべて調べ尽くし、荒波舞という人間の分析をすでにすましている弁論家の東郷は、彼女を落とすべく次なる言葉を紡ぐ。
「期待……?」
その興味を惹かれる僅か二文字の短い単語に、舞はぽつりとやはり短く呟いた。
「そう。期待さ。いろいろと調べた結果、君の身長、体重、運動能力、そのすべてが本校の全生徒の中で最も着ぐるみの装着者として適していることがわかったんだ。この大事な役目を頼めるのは君しかいない。水泳の選手は君以外にもいるかもしれないけど、僕らの着ぐるみを任せられるのは君以外にはいないんだ」
「わたし、だけ……?」
舞は再び呟く。
「そう。君だけだ。世界広しといえども、僕らが期待をかけられるのは君だけなんだ……君の両親が、君だけに期待をかけていたいたようにね」
「……!?」
両親の期待……その言葉を聞いた瞬間、これまでずっと、死人のように生気の宿っていなかった舞の瞳が俄かに見開かれる。
「僕らには君が必要なんだ……君がいなくちゃ駄目なんだ!」
「わたしが……必要……」
舞は、赤い色素の濃い瞳を小刻みに震わせながら、何かを確かめるようにして呟く。
「ああ。僕らは君を必要としているんだ……荒波舞君。ゆるキャラの着ぐるみ装着者になってくれるね?」
東郷のその言葉が、舞の中で凍りつき、沈黙していた何かを再び動かし始めた。
「………ええ。いいわよ」
相変わらず抑揚のない声で短く答えた彼女の顔には、何ヶ月ぶりかで薄らと笑みが浮かんでいた――。
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