応援コメント

91.大和真也の80年代SFシリーズ1/ジュゼ」への応援コメント

  • 通りすがりの者です。当時私は小学高学年だったと記憶していますが、SFは色々読んでいました。今、部屋の片付けをしていて、すごく痛んだ真也さんのコバルト文庫数冊が出てきて、どうしていいかわからず、途方にくれてネット検索してこちらへ参りました。難しくも、何回か読んで読み飽きてしまった素子さんと違う引き寄せられる魅力は世界観の雑さだったのか、果たして表紙イラストのせいだったのか、ストーリーの未完成ゆえだったのかと、色々考えたのですが、この記事を読んで妙に納得してしまいました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございますm(__)m
    文庫はメルカリ等に出せば確実に売れます。少なくともプックオフに持って行くのは勿体無いので!
    復刊ドットコムでもスターゲイザーシリーズが挙げられていますが、確実に当時読んで手放した人がまた読みたい、と思ってる可能性は高いです。というかそれで自分二度目三度目で入手しましたから……

    で、やはりこの文章の中にも入れた「カッチン」も、「奇想天外」入賞作の載ったものを後で入手しました。
    思ったのは、こちらでは確実に上の地球とミクロコスモスの人々が時代や感覚が違う人々になっているんですね。もっと未来人的な考え方で、下の連中のことは本当にただの実験動物としか考えていない感じで。
    だからSFとして17歳の子が書いたとしたらまじ凄いんですよ。
    ただしそれはSF雑誌の上で、の話で。
    コバルト文庫という、SF知ってる陣営の常識は通じない世界で見せるのは難しいわけです。
    それはもう回らない風車でも、ゼラズニイやアンバーとか山下達郎とか、「コバルト文庫読む少女誰もが知っている訳ではない」知識を当たり前の様に置いてあったり。
    だけど同時に、「そんな技術が発展する世界に具体的に同じ文化ものが出るのか」がある訳ですよ。
    あと、確実に男女恋愛の中で女子側に立つのが難しそうなんですね。
    だからジュゼの一応主人公格だったいづみも、おんなおんなしていないし煙草吸うし、イリヤの一人称はぼくだし、ちひろはどちらかというと男子に好かれるキャラを作った感があるのではと。
    作者のあとがきの一人称も「ぼく」である様に、コバルト文庫の読者とはずれた存在であったかと。
    だけど当時やはりSFをコバルトで書いてた小林弘利氏の場合はそもそも映画前提で話が進む様なものだったので客観性が高かったし、新井素子氏の場合は、「普通に男性と付き合う女性」の感覚がわかっていたり、出版系のご両親とかという環境だし、そもそもが「あたし」の一人称を先に出した側でしたからね……
    大和真也氏の場合は、「僕」で書きたい人だったと思われます。そこを「あたし」で無理矢理書いた感があるのですよ。
    スターゲイザーシリーズでも、「え? いつの間にそういう仲に?」とめるへんめーかー氏の絵とは合わない描写が結構あったりですね。
    そういうもやもやが後で確かめたくなったのではないかなと。