#10 ふたつ目のりんご
「
ラテン語には、変化のパターンがいくつか存在するが、mālum―りんご―はそのうちの一つ、第二変化名詞に属する。
「いえ、もう覚えましたよ?」
遥は席を立ち、ホワイトボードの前に立つ。黒のマーカーを手にしかけたが、少し考えて赤のものに持ち替えた。
【単数】
主格
属格
与格
対格
奪格
【複数】
主格
属格
与格
対格 *
奪格
遥はすらすらと書いていく。赤マーカーが少し目に悪いが、りんごの色を意識してのことだ。
フローラからラテン文法を教わるようになってから4日。遥の記憶能力は、変化表の暗記と相性が良かったと見えて、第一変化・第二変化名詞を難なく覚えることができた。
「……惜しい。mālumは中性名詞だから、主格と対格は必ず一致する……だから、複数主格は*
「あっ、そうでした……」
【複数】
対格
間違えた部分を消し、書き直す。その部分を赤でぐるぐると囲い、上の部分に緑のマーカーでヘタを描いた。
一見、ただのりんごの落書きなのだが、遥にとっては大きな意味を持つ。遥の記憶回路は、どうやら視覚的なイメージと強く連携しているらしく、より具体的な色彩や造形であるほど、インプットされやすい。遥なりの記憶法なのだった。
「中性名詞の主・対一致は、どんな変化形でも、単数でも、複数でも同じ……覚えておいて」
遥以外の部員はすでに、基本的な変化表が頭に入っている――遥を教えているフローラ、遥を試したやよい、そして部長のさゆりさえも、ある程度は覚えているという。だが、ラテン語に関して友望の持つ知識は語研部員の中でもずば抜けていた。そもそも、遥が使っている文法書も、辞書も、友望が自宅から持ち込んだものだ。
「『りんごを食べる』、って言いたいときは、対格を使う……んですよね?」
「そう。自分が食べるなら“
「えどー?」
それが東京の旧称でないことくらいは遥にもわかった。
「……まだ、動詞の活用は習っていない? じゃあ、これだけ教える」
友望は本の詰まったコンテナから、その一番上に重ねられた文法書を取り出す。何冊もある文法書の中でも、これはカラー印刷で文字も大きく、説明が丁寧でわかりやすい。遥にラテン語を教えているフローラが、遥に一番使いやすそうなものをと選んだものだった。
それほど分厚くもない、初学者向けの参考書。その初めのほうのページを開いて、遥に見せてくれた。
愛する……amō, amāre
「動詞の変化は、名詞の何倍も多い……だから、まずこれだけ覚えてほしい。ラテン語では、主語の『人称』『数』によって語尾が変化する」
「じゃあ、“amō”だけで主語は私だって、わかるんですか?」
「そう。いわば、“I love”を1語にまとめたようなもの」
友望は席を立ち、ホワイトボードに赤字で書き始める。
I love an apple.
私はりんごを愛する。
You love an apple.
あなたはりんごを愛する。
その字がうまく読めなかったので、はじめは癖の強い筆記体なのだろうと思っていた遥だが、友望が日本語訳を書き始めたところで確信した。
友望は、字が汚い。一見して、アルファベットと平仮名の区別がつかない程度には。
「えっと……こ、これを覚えれば、ラテン語でもりんごを愛でられる……私、頑張って覚えます!」
「……が、がんばって。…………りんご、好き?」
友望本人にも、自分の字が汚い自覚くらいは当然にある。遥の反応を見て少し恥ずかしくなった友望は、何となく話題を遥の好物に移した。
「それはもう、大好きです。とっても
その声は今まで聞いたどの声よりも大きかった。こんなに大きな声で話す遥の姿は、学園内で友望が初めての目撃者に違いない。
「もちろん赤いりんごも大好きですけど、青りんごも捨てがたいです……ん~、なんだか食べたくなっちゃいました」
『りんごみたいで、すごくきれいですね』
無邪気に語る遥。友望の中で、遥の言葉が反響する。
あんなにも素直な好意を、少しでも退けようとした自分を恨む。遥は本当に、本心から、綺麗だと言ってくれていたのだ。
「…………遥」
友望は少し考えてから、その名を呼ぶ。
「え?」
右手に一瞬、ぎゅっ、と力がこめられる。やがて、その手は長い前髪を、ゆっくりとかき分けていった。
まず見えるのが、遥が先ほど目にした赤い左目。りんごのようにきれいだと、遥が言ってくれた瞳。
そして右目が姿を現す。その瞳に映る遥の姿は、真夏の草原の色をしていた。
「……!」
遥は目をまん丸にして見つめ返すが、久方ぶりに人と視線を交わした友望はすぐに耐えられなくなって、前髪を押さえていた右手を離してしまった。
「青りんご! 青りんごみたいです! すごい、きれい……北上さん、とっても可愛いですね」
「……あ、あまり……言わないで」
こうして自ら、コンプレックスである両目を人に見せることが今までにあっただろうか? 友望はしばらく考えてみたが、やはり、思い当たらなかった。
――こんなことは、初めて……。遥、貴女は………いや、でも。
遥は、自分を変えてくれるかもしれない――そんなことを、少しだけ考えてしまった。
でも。
人は早々、変われない。何年も隠し続けた素顔を、まっすぐにほめてくれる人が現れたとしても。
でも。
――でも?
定位置に戻った前髪をつまみ、何となく、弄ってみる。
人は人を変えられない……“でも”。
「……少しだけなら」
自分で自分を変えることはできるかもしれないのだ。
「?」
いつにもまして小さな友望の言葉を聞き返す遥。
「いや。少しだけ……難しいかもしれないけど。できるところまで、覚えてきて」
友望は文法書をペラペラとめくり、巻末の変化表一覧を遥に見せる。遥がまだ覚えていない名詞や形容詞、動詞などの変化がずらりと並んでいた。眩暈のするような情報量に、遥は一瞬、その身を引く。
「うわわ……はいっ。分かりました……」
膨大な表たちに、1ページずつ目を通していく遥。その姿を眺めながら友望はもう一度、前髪をかき分けて、
「……ありがとう」
ほとんど唇が動いただけの、微かな言葉。もちろん、遥の耳に届くことはなかった。
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