#9 韜晦のヘテロクロミア

「りんご、りんご……」


 語研にも、この狭い活動空間にも慣れ始めた遥。この日は部室にだれもおらず、友望の蔵書を漁って暇をつぶしていた。あの大量の書物は、3段重ねたプラスチックのコンテナにまとまっている。語研部室に、これをすべて収められる本棚は置けなかったのだ。


 友望が持ち込んだのは、古典ギリシア語やラテン語といった古典言語のものを中心に、辞書・文法書などであった。これだけの量があって、ここまでジャンルの幅が狭いというのも驚きだが、中には洋書も多分に混ざっており、遥には解読不可能だった。


 遥は「羅和辞典らわじてん」という一冊の本を見つけた。ラテン語を見出しとして、日本語で書かれた辞書である。英和辞典であれば、巻末などに和英索引が付属していることも少なくないが、この辞書には和羅索引がない。


「りんご……」


 遥は夢中になって「りんご」のラテン語訳を探している。それは遥の大好物でもあった。そもそも、この凛雅学園を進学先に選んだ理由の一つが「りんごと音が似ているから」だというのだ。結果、遥は遠距離の電車通学を余儀なくされている。りんごの束縛は厳しかった。


「……mālumマールム


「まー……まー、あった、mālum! ありがとうございます、北上さ……」


 北上友望きたかみともみはそこにいた。

 辞書をめくる遥の目の前に。


「ふぇあえぁああ!?」


 パイプ椅子が床を擦る音が響く。びっくりして飛び退いた遥は、座っていた椅子を後ろに弾き飛ばし、パーティションに激突させてしまった。大きな板がぐらり、と傾き、お隣の座禅部を押しつぶそうとしていた。


――や、やばい倒れる! 座禅部の人起きてー! というか座禅部って何?!


 あわや、瞑想中の座禅部部長を直撃するかと思われたそれが、ぴたりと止まる。友望がその片腕で、傾いたパーティションを支えていた。いつの間に席を立ったのか、遥には見えなかった。


「気を付けて」


 友望は座禅部員6名に向かって謝罪の意を込めた一礼をしてから、遥をたしなめるようにそう言った。

 遥はというと、いきなり目の前に友望が現れ、びっくりして座禅部との間の仕切りを倒しそうになり、そのよく分からない部が語研より部員を多く抱えており、当の部長は一切我関せずといった風で瞑想を続けている――という一連の出来事で頭がいっぱいいっぱいだった。


「……驚かせたのなら、謝罪をさせて。……ごめんなさい。……私は、存在感がない、らしい。だから、……仕方ないこと」


 前髪の奥で伏せられた表情が、どこか申し訳なさそうにしていた。

 遥はそのとき初めて、友望の目をはっきりと見た。切れ長で美しく、その瞳は鮮やかな赤色を湛え、夕暮れの水平線を思わせる。この世のものとは思えない色彩に、遥は魅入られてしまった。

 遥の視線に気づいた友望は、あわてて顔を伏せた。赤い瞳は長い前髪の中にその姿を隠す。


「……見た?」


 友望はうつむいたまま、遥に問いかける。遥は葛藤した。


――見た、見たけど。見ちゃだめだった? ここは誤魔化して、何も見てませんって言えば……でも、素直に言ったほうがいいのかな……。


 考えを巡らせる遥だが、友望はもう見られたことに気付いている。遥にも薄々、それがわかっていた。遥の関心事は、ここから如何にトラブルを生まないように行動するか、その一点だ。


「……はい、ちょっとだけ。りんごみたいで、すごくきれいですね」


 遥にしてみれば、りんごに形容されることは至上の賛辞なのだ。喩え方はともかくとして、遥は素直に友望をほめようとしていた。


「っ……」


 友望の口元がわずかに動く。


「……この目は、私のコンプレックス。だから、誰にも見られたくない……」


 遥が見た友望の左目は赤だったが、もう片方の目は真夏の木々のように明るい緑色をしている――つまり、所謂オッドアイである。友望は自分の奇妙な目を極度に嫌っていた。今まで散々に揶揄われたり、避けられたりしたからだ。中にはその瞳を美しいと評する者もいたが、友望にとってはどちらも好奇の目線でしかなかった。


「……前髪を伸ばしているのは、それが理由」


 だからその目を隠すため、前髪を伸ばし、視線は常に手元の本に落とす。こうすれば、生まれ持った存在感の希薄さと相まって、誰にも見咎められることはない。語学趣味は、その習慣から派生した副産物だった。


「……ごめんなさい。私、知らずに勝手なこと言って」


 二人はお互いの足元を見たまま、何となく気まずくてその場を動けずにいた。その横では再び、座禅瞑想がはじまっている。


「気にしなくて、いい。…………りんごみたいって、言われたの……初めて。かもしれない」


 もともと小さな友望の声が、いっそう小さくなっていく。遥の耳には、もう届かないほどに。


「こっちに来て」


 少し遠くから、遥を呼ぶ声がした。友望の姿はいつの間にか遥の前にはなく、先ほど座っていた場所に戻っていた。


――なんだか、やっぱりよく分からない人だなあ。


 遥も元の席に戻る。羅和辞典のMのページが、まだ開かれたままになっていた。

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