#8 AQUA, MECUM SALTEMUS
「
「ラテン語の曲用なんて、遥ちゃんは知らないでしょう? その上、第四変化だなんて……」
飛び交う専門用語。遥はすっかり蚊帳の外だった。
「語研の部員を名乗るのに、このくらい覚えてないと困るでしょ。そんなこと言うなら、フローラが教えてあげなさい」
こうして訳のわからないまま、遥はラテン語文法を学ばされる羽目になってしまった。やよい曰く、「語研部員の登竜門」らしい。
やよいは相変わらず、単語学習に励んでいるようだ。彼女が単語カードをめくっているさまは、私立中学を目指す小学6年生のようにしか見えなかった。その横で、下西ノ園先生によるラテン語講座が開かれようとしていた。フローラの手に携えられているのは、先週、友望が持ち込んだ大量の本のうちの1冊だ。
「やよい先輩はいきなり難しい問題を出したけど、最初は簡単なところから始めましょう」
「は、はいっ。下西ノ園先生」
「もう。フローラでいいのよ? わたくしの名字、呼びにくいでしょう」
フローラはホワイトボードに「第一変化」の4文字を書く。その下に加えて、青マーカーで“
「aqua……これはラテン語の名詞よ。遥ちゃん、意味は分かる?」
「あくあ……アクア。水、ですか?」
「正解! そう、aquaは水」
きゅっ、とマーカーが音を立てた。
「ラテン語の大きな特徴――もちろん、ラテン語だけではないのだけれど――は、文中の役割によってその形が変化することなの。これを
aqua、aquae、aquae、aquam……と、まさしく水のように流麗な筆記体で、フローラは歌うように口遊みながら書いていく。
「日本語では、水という言葉がどんな役割をもつのか……主語なのか、目的なのか、手段なのか、ということを、『助詞』をつけることで表している。これをラテン語では、語尾の変化で表すことになっているの。この5つの形には、それぞれ名前がついていて――」
必死にメモを取る遥。主格……与格……奪格……。
――奪格。そういえば、小淵さんの問題に「奪格」ってあったような……。あの問題って、この変化を答える問題だったんだ。
「じゃあ、遥ちゃんに問題。『aquaの奪格は?』」
「えと……
「正解よ。
フローラがにっこりと微笑む、その姿はやはり美しく、眩しい。フローラに褒められると、遥は不思議と嬉しくなった。
「何、そのゆるゆるのカオ」
やよいの声に、遥ははっとする。自然と表情が緩んでしまっていたようだ。遥は顔を真っ赤にして俯いた。
「今日はここまでにしましょう。遥ちゃんには宿題。この5つを覚えてきてね」
遥は目を閉じて、先ほどの呪文のような名詞変化を思い出す。aqua、水……流れる水のイメージが脳内で描かれる。指先をつたう雫が文字になって浮かび上がっていく。
「aqua、aquae、aquae、……aquam、aquā……」
清らかな水が形づくる言葉を、遥はただなぞるだけ――その口が紡ぎだすのは、ラテン語・第一変化名詞の曲用というおまじない。
「すごい、遥ちゃん。飲み込みが早いのね」
「……」
ひとり、言葉の世界を旅する遥を見つめる2人。やよいは何も語らずに、暗記学習の手を止めて見入っていた。
やがて遥が目を開く。途端、2人と目が合った。フローラは変わらぬ可憐な微笑みを浮かべて、やよいは感嘆と懐疑の入り混じった顔で。
「喜ぶにはまだ早い。さっきの問題、覚えてないの? アタシは【単数・奪格】と言ったでしょ。ハルカが覚えたのは、第一変化のまだ半分よ」
「……そうね、遥ちゃんなら大丈夫かもしれないわ。これを見て」
フローラは赤のマーカーペンで、先ほどの変化表の左上に「単数」と書いた。そして、新しく「複数」と記された表をつけ足していく。
(単数)
主格 aqua 水が
属格 aquae 水の
与格 aquae 水に
対格 aquam 水を
奪格 aquā 水で
(複数)
主格
属格
与格
対格
奪格
それは、「単数」の変化とは似て非なるものだった。
その意味するところは、先ほどの変化形それぞれに対応する「複数形」。英語でいえば、“waters”といったところだ。
「やよい先輩のいうとおり、第一変化はこの10通りでようやく完成よ。……宿題を改めましょう。この10通りを暗記してきてね。方法がないこともないけれど、語学に丸暗記は付き物なのよ」
「じゃ、明日はひとりで問題解いてもらうからね」
遥は10の形を丁寧に書きとめる。その文字のひとつひとつに、自分の描いたイメージを乗せて。
空想の世界で、水が様々に形を変える。水はふくらんだり、縮んだりしながら、リズムをとるように踊りだす。aqua、aquae、aquās。やがてそれは文字となり、記憶の石碑に刻まれていく。
――なんだか、楽しいな。
見知らぬ呪文だったはずの言葉たちも、今は仲間だ。
これを覚えたら、フローラはまた褒めてくれるだろうか。――そんなことを考えながら、遥は再び目を閉じた。
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