#5 小さなブリキのスキットル

Урааウラー!」


「うわあぁ!?」


 遥の背後から大声が響いた。びっくりして振り返る遥だが、彼女の視界には誰もいなかった。


「なんだ。来てたなら言ってよ、やよい先輩」


Bonjourボンジュール、先輩。カフェオレどうぞ~」


 さゆりたちの反応を見て、遥はもう一度辺りを見回す。背後には、小学生くらいと思しき女の子が立っていた。その身長のため、はじめは遥の目に映らなかったのだろう。さゆりが「やよい先輩」と呼んだその女の子は、遥と同じ制服を着て、胸に緑の校章をつけていた。どうやら2年生のようだ。

 しかし遥には、そんなものは見えてもいなかった。


「け、今朝の単語カードの子!?」


 目の前にいるのは朝、満員電車で見かけたあの子に違いない。あの時は顔までは見えなかったが、この背丈を見紛うはずもない。日本人形のように丁寧に切りそろえられた髪の深い黒色にも、やはり見覚えがあった。


「んん? ……ああ、今朝のおっぱい枕か」


「おっぱ……って、何?」


「使い心地はなかなかだったよ、及第点ってとこね」


 満員だから仕方なく密着していたのではなく、遥の胸をわざと使っていたらしい。


「なによ、失礼な……」


「失礼なのはお前でしょ、アタシのこと無視して、あげくにタメ口きくなんて」


「そっ、それは……って、二年生!?」


――な、なんでこんな子どもみたいなのが先輩? しかも上から目線だし、口悪いし、フローラさんとは別の意味で話しにくい……!


「まあいいけど。今日はめでたい日だから、許してあげる。ほら新入り、飲め」


 やよいはブレザーのポケットから、平たく小さなスキットルを取り出した。側面がなにやら見慣れない文字で埋め尽くされているが、よく見るとそれは手書きであった。

 フローラが戸棚からショットグラスを出してきた。なぜそんなものがあるのか、と遥が疑問に思うより先に、やよいはスキットルから透明な液体をグラスに注いで差し出した。


「うふふ」


 フローラはにこにこしていた。


「さっさと腹決めてキメなさい」


――これ、まさかお酒じゃ……でも、飲まないといけない雰囲気に……どうして二人

とも黙って見てるの、もう!


 どうにでもなれ――遥は生まれて初めて目にしたショットグラスを前に、一息ついてから一気に飲み干した。


「……あれ? 美味しい。というか、飲んだことある味? なーんだ、びっくりした……」


 透明な液体の正体は、桃フレーバー入りの水だったらしい。やよいはスキットルに直接口をつけて、残りを流し込むように飲んだ。


「やよい先輩はいつもこんな感じだよ。ごっこ遊びみたいなもんだから、付き合ってあげて」


 しばらく黙っていたさゆりが、種明かしとばかりに口を開いた。分かってて黙ってたんだ、と遥は少しむっとした。


「おいサユーリ、アタシを子ども扱いすんなって言ってんでしょ。……ま、驚かせて悪かったよ。アタシは小淵こぶちやよい」


「私は……」


 やよいは遥の自己紹介を遮り、ずい、と背伸びして言い放った。


Очень приятноオーチン プリヤートナ、おっぱい枕」


 何を言われたのか、遥にはわからなかったが、最後の言葉だけはハッキリと聞き取ることができた。


――なんなのこの子、絶対悪いって思ってないでしょ。可愛くない……! むかつく!


「私の名前は吉田遥ですっ。枕じゃありません!」


 やよいはフン、と鼻を鳴らしたきり、パイプ椅子を広げて腰を下ろした。苛立ちを隠しきれない遥の拳が、微かに震えていた。


 それを見たフローラは遥に近づいて、そっと耳打ちをした。


「遥ちゃん。魔法の言葉、教えてあげる。――――って、言ってみてご覧?」


「え、えっと……」


 遥は椅子に胡坐をかいて座るやよいの背中に向かって、小さな声で「魔法の言葉」をつぶやいた。


みにゃー、ざヴーと、はるか私の名前は遥です。……おーちん、ぷりやーとなお会いできて嬉しいです、……?」


 フローラの魔法が効いたのだろうか、やよいは首だけ遥のほうを向いて笑いかけた。


Меня зовут Яёйミニャー ザヴート ヤヨイ. Очень приятно……ハルカ!」


 やよいの言葉はやはり、遥には聞き取れなかった。だが、その意味は何となく分かるような気がした。


――小淵さん、こんな可愛い顔してたんだ。


 真っ黒で大きな目を細めて、無邪気に微笑むやよい。それはまさしく見た目相応の、可愛らしい少女のものだった。

 フローラは遥の耳元で続ける。


「やよい先輩はこうやって、ロシア式のあいさつをしない人は認めないの。ちょっと変わった人だけど、優しい先輩よ」


「誰に対しても、ですか? ……お友達、いるのかな。って、私も人のこと言えないや」


 遥はパイプ椅子の上で、小さな身体を仰け反らせているやよいを見た。ふいに、がしゃんと音がして、やよいが遥の足元に転げ落ちてきた。その視線に気がついて、遥はすばやくスカートを押さえた。


 変わっているのは、ちょっとどころではなさそうだった。


「ふん、有象無象の友達なんていらない。アタシを分かってくれる奴らだけいればいいの。そのための語研なんだし」


「そのため?」


「語研を作ったのは、やよい先輩の提案なんだよ。……そう、申請書類には書いていない、語研第二の活動目的」


 語研の名を記した紙をマグネットでホワイトボードに貼って眺めていたさゆりが、こちらを振り返る。


「第一目的はもちろん語学探求。そして第二目的とは……」


 さゆりはそう言い終えてから、思い出したようにマーカーペンを走らせた。新品の真っ白いボードに、インクの黒が冴える。

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