#2 思い出の材料たち

 遥が一年A組の教室にどうにかたどり着いたとき、タイミング悪く、朝のホームルームを終えた担任教師、古澤ふるさわと目が合ってしまった。


「吉田、遅かったな。どうした?」


「ご、ごめんなさい。電車を降り損ねてしまって……」


「そうか、次からは余裕をもって家出ろよ。ま、良い運動になっただろ、なっ!」


 古澤は遥を叱責するでもなく、無邪気に笑顔を浮かべて言った。

 彼は三十代後半の体育教師である。屈強な見た目に加え、中身もまさしく体育会系といった人物だが、優しい性格のため学生に人気のある教員の一人だ。

 その一方で、遥にとってはこの上なく苦手なタイプの人間でもあった。


「そうだ、吉田。部活の申請用紙、今日が期限だぞ。どこに入るか決めたか?」


 はい、と答えかけて、遥は口をつぐんだ。自分が入部を希望する部は、なにせまだ存在していないのだ。


「その、今日中に……」


「まあ、放課後まで待ってやるから、それまで考えてみろ。……一生の思い出になるんだからな。俺のおススメは陸上部だぞ。ハハハ」


 古澤は陸上部の顧問でもあった。

 ともかく、自分の所属先を確立させなければいけない。キーパーソンはもちろん、石飛いわとびさゆりだろう。遥は内心、あまり関わりたくないな、と思いつつも、二つ隣のC組へ向かうことを決めた。


――一生の思い出、か……。そういえば、自分から他のクラスに行くなんて、中学のときもほとんどなかったなあ。どうしよう、なんて声をかけたらいいんだろう。

 荷物を一度自分の席においてから、改めて教室を出た。C組はどっちだっけ、と思案する遥の前に、さゆりがやってきた。


「よ、吉田さん。ちょうどよかった。あのね、例の件なんだけど……」


「え?」


 あたりが騒がしいからか、さゆりの声をうまく聞き取れなかった遥は、さゆりに一歩近づいて聞き返した。


「あの、部活のこと。今日の昼休みに、生徒会に部の設立届を出すから……で、吉田さんの名前、漢字を教えてほしいんだけど……」


 その時、遥は気づいた。あたりが騒がしいだけではなく、さゆりの声が小さすぎるのだ。昨日の帰りに校門前で初めて話したときは、もっとハキハキとしていたはず――もっとも、遥にとってはむしろ話しやすくなったが。

 遥は変な違和感をおぼえつつも、「吉田 遥」と書いたメモ用紙を一枚、さゆりに手渡した。


「あの、大丈夫なの? 申請、通らなかったりとか……」


「うん。部員と顧問と、活動内容がしっかりしていれば大体通るらしいから……。あっ、それじゃ」


 予鈴が鳴ると、さゆりはそそくさと自分の教室へ戻っていってしまった。


――昼休みに生徒会に行くって言ってたっけ。じゃあ、放課後に入部届出しに行こう。……あれ? そういえば、部の名前聞いてないような……。


 名前はおろか、活動内容すら聞かされていない遥。一抹の不安をおぼえながら、授業の準備をしに教室へ戻った。

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