#1 満員電車と少女と遅刻

 金曜日の朝。遥はお弁当を家に置き忘れ、取りに戻ったために遅刻の危機に瀕していた。

 学校から電車で一時間ほどの実家から通う遥にとっては、数刻の遅れが命取りだ。凛雅学園には学生寮があるのだが、人見知りの遥はルームシェアを嫌がって、実家に残ることにしたのだった。


――やばいやばい、この次乗り損ねたら完全に遅刻……!


 改札を抜け、階段を駆けのぼる。途中、つまづきそうになりながらも、遥は満員の電車にすべり込んだ。すし詰めの車内には熱気がこもり、汗ばんだ空気がむせ返る。人、人、人……前にも、後ろにも、下にも。


――あれ? 下?


 遥が目線を下にやると、胸元に黒い頭が見えた。小学生ほどの背丈しかないその少女は、満員の車内ではよくわからなかったが、どうやら凛雅学園の制服を着ているらしかった。この満員だというのに、その小さな手にはリング止めの単語カードのようなものが握られている。


――入学したばかりなのに、こんなところでも勉強してるなんて偉いなあ。私もがんばらなきゃ……英語苦手だし、って、ちょっと、動かないでよ……。


 熱心に暗記学習をしている少女の頭が、電車の揺れに合わせて遥の胸に押し当てられる。気になって仕方なくなった遥は、彼女のカードを覗き見た。


【社会主義】


――わ、難しい言葉だ。社会主義、英語でなんて言うんだろう。社会、ソーシャル……?


 少女は人差し指でリングをトン、トンと叩きながら黙っていたが、やがておもむろにカードを裏返した。


социализмサツィアーリズム


「えっ!?」


 突然現れた見慣れない文字に、遥はびっくりして思わず声をあげてしまった。数人が怪訝な顔で遥を見たが、胸元の少女は意に介していない様子だった。


――英語じゃ、なかったんだ……ロシア語……?


 動揺を隠せない遥だったが、間もなく学校の最寄駅の名がアナウンスされ、少女は電車から降りて行ってしまった。その小さな背中はすぐに雑踏に紛れ、ドアが閉じるころにはもう見えなくなった。


 少しだけ空間が広がった車内で、遥はそっと胸に触れる。わずかな温もりがまだ残っていた。


――なんだったんだろう、あの子……。って、ああああっ降り損ねたああぁっ!


 時すでに遅し、遥を乗せた電車は校舎に別れを告げ、再び揺れ始めていた。この瞬間、遥の遅刻が確定的なものとなったことは言うまでもない。

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