第12話 約束.2

去年の六月。

僕は大学で二年と少しの時間を過ごし、着々と医療に関する知識を学んでいた。


さすがに難関校と言われていただけあって、入学してからの勉強は過酷なものだった。


それでも僕が頑張れたのは、ひとえに舞葉のおかげだ。

彼女が側にいて、いつも元気に笑って応援してくれている様は、彼女の為に医者になる事を志した僕にとって励みになった。


舞葉がどんな病気になったとしても、僕が必ず助けられる様な医者になる。

そう思って専攻している学科以外の勉強にも、広く手を伸ばしていた。


その目標と勉強のやり方は、複雑に分野が別れた医療において、とても無謀なものだったかもしれない。


それでも僕は舞葉のためと思い、目標に向かって勉強を重ねて日々邁進していた。



そんなある日の事。

僕は大学にある夜霧やぎり先生の部屋へ足を運んでいた。

居合わせた舞葉と、僕と夜霧先生の三人で世間話をしている。


本当は夜霧先生に見てもらいたい資料があったのが、その話は舞葉には聞かせたく無い内容のものだったので、僕はタイミングを待った。



しばらくして、舞葉が少し席を外した。

僕は丁度いいタイミングだと思って、持ってきた荷物の中から資料を引っ張り出す。


「夜霧先生! 僕、自分で舞葉の病気について調べてみたんです!」


僕が夜霧先生に提示したのは、様々な病気に関してまとめた資料だった。



そんなものを用意した理由は、この頃に舞葉の体調が悪く、その調子がなかなか良くならなかったためだ。


舞葉はあまりその事に関して、僕と話したがらなかった。


夜霧先生も彼女と同じ様に、僕に対しては話をはぐらかす。

僕がそれについて言及すると、夜霧先生は言うのだった。


「舞葉のことは、私に任せておいてくれ…」


幼い頃から家族の様な時間を一緒に過ごしてきた僕にとって、そんな風に蚊帳の外にされたのは初めてだった。

そのせいで、僕は非常に疎外感を感じてしまっていた。



「参考になればと思って、いろいろまとめてみました」


「ふむ。そうか…」


夜霧先生は僕の資料を前に、怪訝けげんな表情を浮かべていた。

僕が舞葉の病気について首を突っ込むのがそんなに嫌なのだろうか。


しかし僕は、自分も何か役に立てるはずだと確信していた。

これまで大学で医療について学んできたことで自信をつけていたためだ。


だから舞葉の様子を観察して、その症状から予測出来る病気について、自分なりに調べてみたのだ。


「確かに、よくまとめられている。やっぱり景太君は優秀だな。これは後でゆっくり読ませてもらうよ。ありがとう」


僕の資料に軽く目を通した夜霧先生は、そう言ってそれらの書類を一纏めにする。


「でも君はこれ以上、舞葉の病気について気にする必要はないよ。今の君にはもっと他にやらなければならない勉強があるだろう」


少し冷たい口調で夜霧先生は言う。


「そんなことないです。確かに学校の勉強は大切ですけど、僕にとってはそれよりも、舞葉の具合が悪い事の方が重要です!」


この話題を切り上げようとする夜霧先生に、僕は食い下がった。

どうしてそこまで僕を突き放すのか、僕はそれが気になって仕方が無かった。


僕は夜霧先生が重ねてしまった資料から一つを抜き取り、再び机の上に広げる。


「見てください! この病気のこの症状、今の舞葉に当てはまりませんか?」


僕のその行動に、夜霧先生は眉をひそめた。


「景太君、やめなさい」


「こっちも見てください! 複数ある症状の中で、いくつか当てはまるものがあります。…それからこっちの資料も…」


夜霧先生が制止するのもお構い無しに、僕は自分で作った資料を次々に引っ張り出す。


「やめなさい!!」


部屋の中に夜霧先生の怒号が響いた。

僕は驚いておもわず身動きを止める。


夜霧先生は、大声を出してしまったことに自分でも驚いた様子だった。


「も、もうこの話はおしまいだ…」


声を落として夜霧先生はそう言った。

そうして何事も無かったかの様に、再び机の上を片付け始める。


それを見た僕は、とてつもない疎外感と同時に怒りの様な感情を抱いた。


「どうして僕の話を聞いてくれないんですか! 何か隠しているんですか!? 舞葉のは何の病気にかかっているんです!?」


僕は思わず声を荒げてしまう。


「君が知る必要は無い。舞葉のことは私に任せておきなさい」


「前からずっとそう言ってますよね!? それなのに、舞葉の具合は全然良くならないじゃないですか!! 本当は何の病気か、分かっていないんじゃないですか!?」


「…君に何が分かるというんだ! 未熟者のくせに、知った風な口をきくんじゃ無い!!」


僕の態度に、夜霧先生も口調が強くなる。

次第に熱が入り、お互いに喧嘩腰になっていく。


「確かに僕は未熟者ですよ!! でも僕は舞葉の為に何かしてやりたいんだ! 今の自分にできる範囲で、彼女のために行動することが間違ってるって言うんですか!?」


「っ…、君はっ!!」


「病気の人の為に最善を尽くすのが医者でしょう!? 僕は舞葉の為に最善を尽くしたいんだ!!」


「君はっ! 私が娘の為に最善を尽くしていないと言いたいのかっ!!」


興奮した様子で、夜霧先生は目の前の机を叩いた。

僕も負けじと、前のめりになって机を叩く。


「違いますよ!! 僕にも彼女を助ける手助けをさせて欲しいんです!! 僕だけ蚊帳の外だなんて、そんなのいやなんですよ!!」


僕のその言葉に、夜霧先生は苦しそうに表情を歪めた。


「彼女はがんだ!!」


その言葉を聞いた瞬間、僕は言葉を失った。


「…え? 今、なんて…?」


怒号が飛び交っていた部屋が、一瞬にして静まり返る。



静けさも束の間だった。

次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。

大きな音がして、驚いた僕と夜霧先生は出入り口の方を見る。


そこには険しい目つきをした舞葉が立っていた。


「お父さん!! 言わないでって言ったのにっ!!」


舞葉は涙を流して、僕の方へと視線を向ける。

一瞬だけ僕と目が合うと、彼女はその場から駆け出して部屋の外に姿を消した。


「舞葉…」


震える声で呟いた夜霧先生は、額に汗をかきひどい顔をしていた。

おそらく僕も同じ様な顔をしていただろう。


「先生、本当に彼女は…」


崩れる様に椅子に座った夜霧先生に、僕は恐る恐る話しかける。


「舞葉の体は癌に侵されている…。再発したんだ…」


「再発…?」


「ああ…。二年前にも彼女は癌を患った…」


その言葉を聞いて僕は思い出す。

受験の時、舞葉が海外の病院へ入院したこと。

そしてその時に、彼女が自分の病気を頑なに教えてくれなかった事を。


「治せたと思っていた…。だが再発してしまったんだ…。今度は全身に転移している…。ステージ4の癌だ…」


夜霧先生は一人ごとのように呟いていた。


「嘘だ…、どうして僕に教えてくれなかったんですか!?」


「舞葉が…、君には自分で伝えたいと言ってな…」


「…ああっ、そんな…」


僕は思わず声をあげてしまう。


夜霧先生は舞葉の病気に、全力で立ち向かっていたに違いないのに。


夜霧先生に僕は何と言っただろうか。

彼の気持ちも知らず、舞葉との約束を破らんとしていた先生を追い詰めた。

彼を傷つけるような言葉を、感情のままにぶつけてしまった。


僕は酷い罪悪感にさいなまれた。

こんなに心が押しつぶされそうな感覚を覚えたのは初めてだった。


「ごめんなさい…夜霧先生…。僕はあなたに…」


「…いいんだよ。私こそ、すまない…」


椅子に座っている夜霧先生は、急に痩せ衰えた様に見えた。

僕はそんな彼を見て、寄り添うように手を取る。


「私のことはいいんだ…。舞葉を追いかけてやってくれないか…」


そう言われて、僕ははっとする。

部屋を飛び出して行った舞葉の、泣いている横顔を思い返す。


「…本当に、ごめんなさい!」


僕は夜霧先生に頭を下げると、勢いよく部屋を飛び出した。



僕は目星も付けずに校舎内を駆け回る。

舞葉がどこに行ってしまったのか見当もつかない。

それでも無我夢中で走った。


渡り廊下、図書室、食堂、各教室を闇雲に探して周り、最後にラウンジを通って校舎の外に飛び出す。


中庭は沢山の人が往来していた。

僕は走りながら周囲を見回して、懸命に舞葉の姿を探す。



校舎の別棟をいくつか巡った僕は、キャンパス内の奥にある小さな噴水付近で、力無く歩いている舞葉の姿を見つける。


肩を落として歩いているその姿は、後ろから見ても泣いているのがまるわかりだった。


「舞葉!!」


僕は周りに人が大勢いるにも関わらず、大声で彼女の名前を叫んだ。

通行人のほとんどが、驚いて僕の方を見る。


数メートル先に立つ舞葉は、僕の呼びかけにゆっくりと振り返った。


「景太君…」


僕をみてそう呟くと、彼女は地面を蹴って走り出す。

僕とは反対の方向へ、僕から逃げるように駆けていく。


「待ってくれっ、舞葉!!」


周りから向けられる好奇の視線が僕を貫く。

しかし今はそんなもの気にならなかった。

僕は舞葉を全力で追いかける。


校舎と校舎の間を抜けて少しの間走った僕達は、次第に人気ひとけの無い場所へと移動していた。


体が弱く体力があまり無い舞葉との距離は、すぐに縮まった。

追いついた僕は、彼女の腕をできるだけ優しくつかまえる。


「舞葉! どうして僕から逃げるんだ!」


腕を掴まれた舞葉は足を止める。

そして振り返り僕の顔を見ると、顔をぐちゃぐちゃにしながら泣き始めた。


「うぅ、景太君…。私、癌なんだよ…もう助からないんだ…。死んじゃうかもしれないんだよぉ…」


舞葉は声をこわばらせて、絞り出すようにそう言った。


「舞葉…」


「言わなきゃいけないのは分かってた…。伝えなきゃいけないって思ってた…。でも…でもそれって、お別れを言うことと同じだから…」


大粒の涙を次々にこぼす舞葉。

彼女は自分の服を、片手で掴んで握りしめている。


「景太君にお別れなんて言えない! 言いたく無かったんだよっ!!」


声を上げた舞葉は、僕の腕を振り解いて後ろを向いてしまう。

その小さな体が震えている。

溢れる涙を必死に抑えようとしている。


「ごめんね、こんな大事なこと黙ってて…。私、自分勝手だよね…」


「そんなこと…」


無い。と僕が言う前に、舞葉は続ける。


「私のことはもういい…。もう放っておいて…。ほかにすることを探してよ…。景太君はこんな自分勝手な人間のこと…嫌いになったでしょう…?」


その言葉を聞いて、僕は腹が立つのを感じた。一瞬で頭に血が上る。


「このっ…大馬鹿!!」


思わず大声で叫んでしまう。


舞葉は一人で不安になって、勝手に僕達の関係を終わらせようとしている。


それが許せなかった。

そんなことは無いと、どうしようもなく教えてやりたかった。


そうして我慢が出来なくなって、僕は舞葉に駆け寄ると、力強く彼女のことを抱きしめていた。


「僕が舞葉を嫌いになるだって!? 何を馬鹿なこと言ってるんだよ! そんなこと、あるわけないじゃないか!!」


「景太君…」


僕が抱きしめた舞葉は、嗚咽おえつを漏らしながらも僕の腕をしっかりと握りしめた。

彼女の流す涙で、僕の両腕が濡れる。


目の前で苦しんで泣いている舞葉をみた僕は、彼女を蝕む病に対して憤りを感じる。


しかし、それをどこにぶつければいいのか分からなかった僕は、ただ宙に向かって叫ぶしかなかった。


「ああ、くそっ! どうして今なんだよ! 僕が勉強して…、立派な医者になって…、舞葉に何かしてやれるようになってからじゃないんだよ!!」


舞葉を苦しめる病が憎かった。

そして無力な自分が許せなかった。


「僕は何のために…、誰のために医者になろうとしてたんだよ…! 今、力になってやれないんじゃ、何の意味も無いじゃないか…」


悔しさで奥歯を噛み締めた。

僕の頬を静かに涙が流れ落ちる。


「そんなこと…ないよ」


僕の腕の中で、舞葉が小さな声で呟いた。


「私、今まで色々な病気になってきた。それに負けないで頑張ってこれたのは、全部景太君のおかげなんだから…」


舞葉は身をよじって僕の方へ向き直る。

僕の胸に顔を埋めた状態で、彼女は僕を抱きしめてくる。


「景太君が私のために頑張ってくれている姿を見て、わたしはいつも勇気をもらってた…。励まされてた…。それを意味がないだなんて言われたら嫌だよ…」


「舞葉…」


彼女の言葉を聞いて思い知らされる。


僕は彼女がいたから頑張れた。

彼女は僕がいたから頑張れた。


僕が自分の今までを否定することは、舞葉のこれまでを否定することと同じだ。


今僕が弱音を吐くということは、彼女のこれからを否定することと何ら変わりは無い行為なのだ。


舞葉は重い病気を患っているが、こうして僕の腕の中にいる。

不安を抱えて涙を流している。


だったら僕は彼女を勇気付けてやらなければならないはずだ。


「ごめん舞葉。大馬鹿なのは僕も一緒だ…。僕は絶対医者になるよ。立派な医者になって、大勢の人を助けられるようになる。…それを絶対に諦めないし、途中で挫けたりしない…」


僕の言葉を聞いて舞葉は顔を上げる。

そして何度も繰り返し頷く。


「うん、うん。頑張ってくれてる景太くんのおかげで、私は勇気をもらえるんだ…! そうやって私を勇気付けてくれる景太君が、私は大好きなんだ…!」


舞葉の顔が満面の笑顔に変わる。

涙で濡れてひどい有様だったが、それでも美しい笑顔だった。


「景太君が頑張るなら、私も頑張れる。どんなにひどい病気だって、私は諦めないんだから…! 絶対に…負けないもん…!」


舞葉は精一杯の虚勢を張っていた。

彼女がそうしている限り、僕も強がり続けるしかないと自分を叱咤しったする。


「僕はずっと舞葉のそばにいるよ。決して離さないから…」


「うん。ずっとずっと、ずーっとそばにいてね。約束だよ…」


数秒の間見つめ合った僕達は、気が付けば唇を重ね合わせていた。



いつまでもこのままで、その時間が永遠に続けばいいと、僕達は心から思っていた。

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