第11話 Part of your world


何が引き金となるのか。

それは一か月、三か月、二週間。

不定期に夢に出てくる一瞬がある。


おじいさんの家の前は海辺にあって。

小さな崖の上に立つ家から、そのまま海に飛び込むと、全てをリセットできたようですっきりした。




空気が上へ上へと昇っていくのを、重力に解放された世界で眺める。

されるがままに沈んでいけばきっと私は死んでしまう。

碧の中に、日の光が差し込むと白く見えるのだということを初めて知ったのはいつだったか。

ボンヤリとそんなことを思う。



私は、今でも水の中が好きだ。



肌にまとわりつく冷たさ。

陸とは違って静かで、周りには魚しかいない。

イヤホンから漏れる聞きたくもない音楽も、誰かと電話しながら謝罪の言葉を並べる人の声も、けたたましく鳴らされるクラクションも、全部、聞こえない。




でも、さすがに人間が水中に沈めば気泡が昇る音はするわけで。

コポコポと。

これも私がまだ生きている証拠だ。

もうそろそろ無くなりそうではあるけれど。



人体が長い間、水につかると、白くて醜い肉塊になるという話は聞いたことがある。

江戸時代の処刑方法のひとつとして、日本史の時間に紹介されていた絵面を今更頭に思い浮かべる。


水面で揺れる白い光から、僅かに上を浮かぶ腕を眺めると、確かに青白く見えた。

遺伝的に肌が白い方ではある。

それに拍車をかけて、病的な白さになっていた。




「 」


呟いたところで、音になることは無い。

口から気泡が漏れるだけ。



海の碧に沈んでいく。

遥か遠い水面に手を伸ばしながら、自由落下していく自分を他人ごとに感じながら。



……いつもここで目が覚める――。





「おい、」


「」


「聞いてんのか」


「」


「起きろっつってんだよ」


「お、」


騒がしいと思ったら、人がいた。


どうりで寝覚めが悪いわけだ。


まだ声しか聴いていないが、目を開けたら、そこに誰がいるかは分かる。


会うのを避けていた。

これからこの人たちと仕事をしていくのかと思うと、逃げたくなって。



――じゃあ、やらなければいいじゃないか。


そう思う。

実際、適当に誰かと組んで、音楽を創っていく方が楽だ。

劇伴、作曲を私が担当。

作詞や歌唱は任せる。

何も変わらず。

自分のやりたいことをやりたいようにやる。



でも、それはただの怠惰だ。


いくら最初の仕事の評価が良かったとしても、成長が見られなければ、聴き手はいずれ飽きる。


もしも人に自分の音楽を聴き続けてもらいたいなら、常に新しい感動を与える存在でなくてはならない。


だから、私は――。



「岩崎一蕗」


目を開け、

ゆっくりとベンチから身を起こす。


そうすると岩崎一蕗と視線の高さが同じくらいになった。


日本人の光彩は黒か茶だと思ったが、こいつは少し違う色をしている気がする。

髪もそうだが、全体的にこいつの黒は、藍色に近い。

ベンチの裏手に立っている暖色の電灯が眩しい。


気付けば薄暮時は終わりを告げていた。


都会では、夜に屋上で灯りをつけていようと目立つことは無い。


これを「宝石が散りばめられたようだ」と形容する人もいるらしい。


「呼び捨てとは、良い度胸してんな。いい加減名乗れよ」


名は前回対面したときに名乗ったと思うのだが。


怒った様でもなく、淡々と。

声音も目つきも通常通りに低く、落ち着いている。

私から目を逸らさない彼に向けて答える。


「翡翠川永良」


「本名か?」


「うん」


「へー」


「」


「で、何でこんなとこで寝てんだ」


「んー」


「風邪ひくぞ。


…キリカからテメーもうちの所属だって聞いてる。

こないだみたいに倒れるなんざ、プロじゃねえ」


「ん」


彼は会話の速度が特に速い。

大半の場合でも私が返答を考えているうちに、人は会話を次へ次へと進めていく。

キリカちゃんと、歴代のマネージャー、あとは師匠、今はもういないおじいちゃんくらいとしか会話が成立した覚えがない。

学校では「はい」か「いいえ」の意思表示を、教師相手にしているだけ。

他人とコミュニケーションを取れる機会は稀だ。


「何時?」


「今か?」


「ん」


「18時手前だ」


「ん、」


あまり長い間寝ていたという訳でもなさそうだ。


それに、もうそろそろキリカちゃんも仕事が終わる頃だろう。


文鎮代わりのスマホを持ち上げ、留め置いていた楽譜を黒地のキャンバストートバッグに詰める。


そしてBluetoothのヘッドフォンをオンにして、プレイリストをスクロールして、めぼしい楽曲が入った一覧をタップすると、クリアな音が流れだした。


「またね」


眉を僅かに上げた岩崎一蕗を目端に立ち上がると、コンバースのゴム底がコンクリートの床に落ちる音が響いた。


メガネをかけ直し、ポケットに手を突っ込む。


硬いベンチで寝た為か、背中が痛い。


「んー」


手をポケットの外に出し、その場で大きく伸びをした。



シャカシャカシッキン。

と音を鳴らすヘッドフォンが創りだす世界に閉じこもろうとすると、勢いよくヘッドフォンが捥ぎ取られた。


「なに、」


音を奪われるのは不愉快極まりない。

何をされても基本は、怒ることの方が体力を消化することを分かっていて、私は何もしないが、何故か、作曲を邪魔されたり、ヘッドフォンを無理にとられたりすると、腹が立つのだ。


キリカちゃん相手にも、キレたことがある。


「返して」


取り敢えず、ヘッドフォンを他人に持たれている状況が嫌だ。


右手を出して、返却を促すと、岩崎一蕗はそれを完全に私の頭から外し、持ち上げてしまった。


身長差は20センチほど。


ジャンプすれば届かなくもないが、落とされたら困る。


脛をゲシゲシと蹴りたいところだが、後が面倒臭そうだ。


全ての不満を押し殺して、右手をもう一度前に出す。


「まだ会話終わってないのに消えようとすっからだろ」


「それって私が悪いの?」


「は?」


信じられないという顔をする岩崎一蕗。


肌にはニキビ一つなく、白く澄んでいる。

身長も高くて、細身。

シャープな顎のラインと、高い鼻、切れ長な瞳を持って生まれれば、会話を拒まれる機械などそうそう無いだろう。

黙っていても人が寄って来るタイプの人間。


――見飽きた人種だ。


「私が今、あなたと話す必要性は無い」


「だとしても無視はないだろ」


「聞こえなかった」


「、」


そう。

聞こえなかったのは本当だ。

だから仕方ない。


でも、仮にもこれから一緒に仕事をしていくことになる相手なのだから、揉める訳にもいかず。


「一つ」


「」


「一つなら答える」


キリカちゃんとの約束まで、あと数分といったところだろうか。

一つの質問になら答えられると判断した。


吹きつける風が冷たい。


昼間の晴天は綺麗で、ぽかぽかとしているのに、吹く風は乾燥している。


モシャモシャなウィッグが風に煽られ、さらに原型から遠ざかったが、

ここで外していく訳にもいかず。


ウィッグで蒸れたぺちゃんこ髪と、モシャモシャウィッグの二者択一だと、

僅かにモシャモシャなウィッグが勝るのだ。


毛流れを手櫛で整え、目の前に立っている岩崎一蕗を見つめると、

彼は黙ったまま、虚空を見つめていた。


深く物事を考えるとき、人はあのような顔をする。


そこまで深く考えることでもないのだが。

また会うことになるのだし。


「時間切れ」


五分という見積もりは甘かったようだ。

質問の考慮時間にほとんどを使われてしまっている。

将棋でもあるまいに。


「返して」


未だに私のヘッドフォンを持ったままの岩崎一蕗に、再度右手を差し出すと、また頭上に持ち上げられてしまった。


目に光が戻っている。


時間の経過に自覚が無かったようだ。


「分かった分かった、」


「」


「翡翠川永良、というよりはHeath、

…てめーに質問だ」


「、」


「ヒントなら先週にたっぷりもらったんでな」


「で?」


恨むなら、先週の自分を恨むしかないか。


一応否定はしたが、相手はどうやら確信しているようだ。

まあ、どうせ、すぐ知らされることではあるが。


「あ、」


「?」


「やっぱやーめた」


「は、」


「今ここで質問しない代わりに、一つ頼みごとがある」


「無理」


「じゃなきゃヘッドフォンは俺が預かる」


「窃盗」


「警察にでも行くか?」


自分のブランド力を理解したうえで、使ってくるとは質が悪い。

岩崎商事の長男が物を盗むはずがない。

世間はそう思うだろう。


屋上から落とす、と言われなかっただけマシと思おう。


「…分かった」


――だから返せ。


と、右手を差し出すと、今度こそ彼は私の掌にヘッドフォンを載せた。


相手の口角が地味に上がっているのがむかつく。


岩崎一蕗のパートだけ難しくしてやろう。


今更音楽を聴く気も起きなかった。

首にヘッドフォンを掛けて、灰色の鉄扉を開ける。


最後振り返ると、あいつは私のことを見つめていた。


「また」


と呟いているようにも見えた。


踵を返し、階段を下りる。

いつもより足音をたてているのは、イラついているせだ。


食事前ではあるが、バッグの中に入れておいたソーダ味のチュッパチャップスを探り当て、包み紙を剥がす。


乱暴に口に放り込むと、シュワっとした感触が口の中で弾けた。














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