第59話 計算外
是清の廊下を歩く足は、これでもか、というくらい遅かった。
途中までは普通に歩いていたのだが、ちょこっと寄り道をして、それから足取りは亀と張り合えるくらいになってしまった。
当然だ。是清がどんな人間なのか考えれば、答えは自ずと出て来る。
(教室入りたくねぇな。桐生はそれほど目立たないなんて言ってたけど、いや、絶対目立つよな)
ネガティブな思考に陥る。
今更、目立つのを気にするのは何か違う気もするが、それでも嫌なものは嫌だ。
いくら遅くとも、進めばいずれは目的地に着く。
やがて自分の教室の前まで来た。
男教師の無駄に大きな声が廊下まで響く。彼は国語の担当教師。
(そういや5限はあいつの授業だったか。
やだな。あいつ怒ると面倒なんだよな)
ここに来て時間割を覚えてない自分を恨んだ。
とは言え仕方ない。是清は基本的に置き勉をするので、時間割などそこまで気にしない。
ちょっと気づかれないように最新の注意を払って教室を覗く。
(うわぁ、入りにくい。……!)
途端に心臓が跳ね上がった。
授業中の教師と目が合ったのだ。
これは廊下まで叫びに来るか? と考えたのも束の間……。
(……あれ? 気づいて、ない?)
確かに目が合った気がしたが、男教師は何事もなかったように黒板に向き直った。
(……そうか! そういうことか! 俺があまりにも存在感がないから、気づかなかったのか!)
全ての辻褄が合った。
是清は他人の顔を伺う性格のせいで、自慢じゃないが、少ない時間で相手がどんな人間なのか、知るのが得意だ。
男教師とはまだ1ヶ月と少しの付き合いだが、どんな人間かは容易に想像がつく。
もしこの状況で彼が是清に気がついていたならば、真っ先に怒鳴りに来るはずだ。それがないということはすなわち、そういうことだ。
ということなら、話も違ってくる。
(こっそり行けば、バレない……よな?)
自問自答をするが、今の是清は勝手にイエスを出した。
それからは早かった。
まずは教室の後ろの扉の方に行き、屈んでから扉に手をかけた。
そのままゆっくりとスライドさせていく。この際に大切なのは、焦らないこと。あくまで一定の速度で……。
(……よし! 通れる! 行けるぞ!)
是清はゆっくりと中に入った。
後はバレずに席に座って、何事もなく過ごすだけなのだが……。
(そうだな……)
是清の席は窓際の前から3番目のため、どうしても数人の生徒に気づかれはするだろうが、そこには暗黙の了解が働く。
現代の日本において、「ちくる」という真似はあまり良い意味に捉えられない。
要するに是清に気づく何人かも、知らんぷりをしてくれるわけだ。
それが分かれば十分だった。
男教師は黒板に熱心に書き込んでいる。
チャンスは今しかない。
(う、おぉぉぉッ!)
心の中で気合いの叫びを起こし、是清はちょこちょこ歩きでしゃがみながら、素早く進んだ。
──ドン。
そしてすぐに何かにぶつかった。
少しでもリスクを減らすために顔すら、全力で下に向けていたので、そこに何かがあったのに気がつかなかった。
(でもおかしいな。こんな壁すれすれの位置で誰かが授業しているわけじゃあるまいし)
一瞬、ゴミ箱に当たった可能性も考えたが、それは違う。感触からして違う。
恐る恐る是清は顔を上げた。
同時、
「やぁ、おはよう」
挨拶をかけられた。
声がどこから発せられていたか。
真上だ。是清の真上。
まるで今ぶつかったのが、人であったかのような。
(……え? なんで、校長がいんの?)
嫌な予感は当たった。
そう。視線の先には、音羽坂高校の校長が
「あー、えー……ははっ。校長先生。もうお昼だから、今は『こんにちは』ですよー」
(何言ってんの俺!? 馬鹿なの!?)
焦りからどうやら今、是清は自分でも思っても見なかったことを口走ったらしい。
「おや、そうだね。君は勤勉だね」
なぜか校長が褒めてくる。
(なにこれ、怖いんだけど)
と、是清がそう思っていると……。
「どうしましたか校長?」
黒板に書き終えた男教師が怪訝そうに問うてきた。
「……あ……」
彼はすぐに何かに気づいた。
何に気づいたか。
考えるまでもなかった。
「え? おい、高坂──」
「──おはようございますしぇんしぇい。きょ、今日も良いお、お天気ですね」
言葉を遮る。
しかも「おはよう」ときた。これは校長を馬鹿にはできない。
「……………………お前、後で職員室」
かなりの間を置いたかと思いきや、彼はそれしか残さなかった。
(は……? はあぁぁぁッ!?)
当然と言えば当然だが、そんな叫びがこだました。
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