第四章 酒と女、支払わざる者食うべからず 【第三節 無礼なヒゲ】
少しとろんとしてきた目をマダムに向け、クロが尋ねた。
「……耳がいいんで聞こえちまったけど、下で騒いでるのは誰だい?」
「申し訳ございません、クロさま。――いえ、商談のたびにこちらへ寄ってくださるお客さまなのですけど、このかたがもうあたくしにべた惚れで……おほほほほ」
「察するにマダムの崇拝者か。気持ちは判らないでもないかな」
「いえいえ、ここだけの話ですけど、金払いがよくなければとっくに出禁にしているようなお客さまですわ」
マダムは自分の首に手を当て、軽く舌を出して見せた。
「――持って生まれた容姿のことはとやかく申しませんけど、品性のほうがどうにもこうにも……女たちも含めて、この店を丸ごと全部買い取ろうだなんておっしゃってくるようなお客さまですので」
金がない客なら叩き出すだけですむが、なまじ金のある客だと無下にもできない。おそらくかなりの豪商なのだろう。
「どれ、ここは俺が間に入って――」
ハルドールがケチャを脇にのけて立ち上がろうとするより先に、ワイングラスをまたひとつ空にしたクロが、軽く肩を回しながら席を立った。
「……やかましい客だね。黙らせてくるよ」
「お、おい、ミス・グローシェンカ! きみが行くのはまずいよ!」
魔法生物にも酩酊するということがあるのかどうか、ハルドールには判らない。が、明らかに今のクロは酔っている。少なくともふだんの彼女とは目つきが違う。力の加減を忘れた彼女がてのひらをひと振りしたら最後、ニンゲンやエルフはいうまでもなく、屈強なドワーフですら、ほかほかと湯気を立てる丸焼きになりかねない。下手をすると店に延焼する恐れすらあった。
慌ててハルドールがVIPルームを出ると、すでに一階フロアはぴりぴりするような緊張感に支配されていた。
「……さっきからやかましいんだよ、デブ」
階段の途中で手摺に寄りかかり、ワインの香りのする溜息をつきながら、クロは噴水の前にいた男にいい放った。
「どこかよそに行きな。せっかくのワインがまずくなる」
「……え?」
くだんの商人――ドン・デルビルは、いきなり現れた小麦色の肌の美女を見上げてぽかんと口を開けっ放しにしていた。その周囲にいる腕の太い男たちもまた、クロに見とれて言葉を失っている。彼女の美貌からすれば当然のことだろう。
それからたっぷり五秒ほどたってから、デルビルは贅肉の塊のような身体をぶるぶる震わせ、クロを指さした。
「き、きみい! いきなり何なんだね!? 私は――」
「うるさい。黙りなっていってるだろ? 声が無駄にでかいんだよ、さっきから」
頭ごなしにデルビルのセリフを封じ、クロは階段を下りていった。
「――この店は下品な客はお断りだ。怪我をする前にさっさと出ていくんだね」
「はは~ん……さてはきみ、新入りだな? 礼儀がなっていないところを見ると、きょうが初めての体入か?」
デルビルは鼻の下のヒゲを撫でつけながら、無遠慮にクロの全身を眺めやった。
「体入なら私のことを知らなくても仕方ないなあ……ならちょうどいい、この機会に覚えておくことだ。私はこの店の常連で、城にも出入りが許されている御用商人の――」
「人の言葉を理解できないのに商売ができるのかい、あんた?」
ぶちぶちっとイヤな音がして、デルビルのヒゲがはらはらと舞い落ちていく。デルビルがいやらしくクロに顔を近づけた瞬間、彼女の手がすさまじい速さで動き、嫌味な商人の鼻の下から悪趣味なヒゲをむしり取っていたのである。
「……むぐお!?」
ワンテンポ遅れて痛みに気づいたデルビルがその場にしゃがみ込む。クロはそれを傲然と見下ろし、指先に残っていたヒゲをふっと吹き飛ばした。
「今のは迷惑料だ。これ以上無駄に支払いをさせられる前に帰ったほうがいいよ?」
「てっ、てめえ……旦那さまに何て真似を!」
「許さねえぞ、このアマ!」
取り巻きの用心棒たちが色めき立ち、いっせいにクロを取り囲んだ。修羅場の予感に店の女たちが悲鳴をあげ、固唾を呑んでなりゆきを見守っていたフロアの客たちも、思わず腰を浮かせている。
「……わたしは再三警告したからね」
うんざり顔で嘆息し、クロは右手を振り上げた。
「よしなよ、ミス・グローシェンカ」
そこから繰り出されるのは灼熱の炎か、それとも必殺の拳か――ともあれ、死者が出てからでは遅すぎる。一瞬でクロのかたわらへと移動したハルドールは、彼女の手を押さえてたしなめた。
「……今のきみでは手加減ができないだろう? ここはマダムの店だよ?」
「だから何だい?」
「内装や調度品を壊したらかなりの高額になる。当然きみには弁償できないだろうし、となれば代わりにじゃじゃさまが弁償することになる。……また彼女に借りができるけど、いいのかな?」
「…………」
「だいたい、きみがわざわざ拳を握るほどの相手じゃないだろう?」
「何だと!? このガキ――」
「俺たちがどこから出てきたか、よく確認したほうがいいよ」
殴りかかってきた目の前の男の胸を、ハルドールがてのひらで軽く突く。その一撃だけで、男は店の外まで吹っ飛んでいった。
「なるべく何も壊さないように……っと」
さらにハルドールは、ほかの用心棒たちに何かさせる間もあたえず、あっという間に全員を通りへと叩き出してしまった。
「――さて、会長さん」
鼻の下を押さえてへたり込んでいるデルビルを強引に立ち上がらせると、ハルドールはその肩を掴んで後ろを向かせ、ほこりを払ってやった。
「申し訳ないけど、今夜のところは帰ってもらえるかな?」
「あ、なっ、なん、お、おまっ」
「俺? 俺はほら……だからさ、VIPルームから出てきたんだから、何となく察しようよ、ね? この国で一番偉そうにしてる人っていえば何となく判るでしょ、ここで商売をしてるなら? もちろん俺だって、他人の威光を借りるのはあまり好きじゃないけどさあ」
「ええ!?」
完全に酔いが醒めたデルビルは、さっきまで真っ赤だった顔を急に青ざめさせた。
「ま、まさか!? ――じゃ」
「みなまでいわない! 秘密だよ! お忍びってやつ? 判るよね?」
ハルドールはデルビルの肩を叩いて店の外まで案内し、そこで気絶している用心棒たちを指さした。
「……とりあえずこのままだといかにも見苦しいし、ほかのお客さまたちにも失礼だから、さっさと彼らを連れてきょうはもう帰りなよ。じゃあね」
デルビルを軽く突き離し、ハルドールは店の扉を閉めた。
「……余計なことをしてくれるね」
戻ってきたハルドールを、クロが睨みつける。さっきよりもさらに酔いが回っているようだった。
「俺はあちこちの世界を渡り歩く勇者だから、基本、得物にはこだわらないんだ。その世界で調達したもので戦うことにしてる」
さらに何かいいかけたクロを制し、ハルドールはいった。
「――けど、たとえばここによく磨かれた名剣があったとしても、それで料理をしようとは思わないよ。料理には包丁を使うべきだからね」
「……何がいいたいんだい、あんた?」
「あんな連中を始末するのに使うには、きみの力は上等すぎるってことだよ。いい女は自分を安売りしないだろう?」
「……あんたは逆に言葉を安売りしすぎるよ。男のくせに口数が多すぎる」
ハルドールの脛を軽く蹴飛ばし、クロはVIPルームに戻っていった。
☆
結局、その後もさんざん飲み食いしたハルドールたちが〈絞首刑〉をおいとましたのは、完全に日付も変わった真夜中のことだった。
「どうぞお気をつけて……なんていうのもおこがましいとは存じますけど」
店の外まで見送りに出てきたドミナは、また羽根扇子で口もとを隠しておほほほと笑った。
店の横では、今夜も所持金が足りなかった男たちが、身ぐるみを剥がれて麻袋に詰められ、無慈悲に吊られていく。綺麗に着飾ったドレス姿の女たちが、額に汗しながら無銭飲食の男たちを吊るしていくさまは、どことなくシュールだった。
ハルドールの視線に気づいたのか、ドミナはしたり顔でうなずき、
「……あのようなお客さまもいらっしゃいますけど、それでもここは、よその土地よりははるかに安全で住みやすい土地ですわ。ぜひともこの平穏を守ってくださいましね、ハルドールさま?」
「ああ」
ハルドールは背中のクロを揺すり上げ、ドミナたちにウインクした。
「――それにしても、魔法生物でも酒に酔って眠りこけるものなんだね」
熟睡中のケチャを小脇にかかえたシロと並んで、ハルドールはぐっと人気が少なくなった通りを歩いていく。もっとも、あと四、五時間もすれば、近隣に住む農夫たちが集まってきて、中央広場と満月通りに朝市を立て、賑わしさに満ちたあらたな一日の幕を開けるのだろう。もしかするとランマドーラが静けさに包まれるのも、この深夜のひと時だけなのかもしれない。
――つづく
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