第三章 ヒゲとヒゲ、そして消えたヒゲ 【第二節 女神の宝珠】
「――それにしても、兵士たちの訓練を見てやれといったかと思えば、すぐにまた呼び出しか……人使いが荒いね、我が愛しのじゃじゃさまは」
ハルドールが召喚されたばかりの頃は、パンダやクロが暴れたことはあったにせよ、城内の空気はまだどこかのんびりとしていた。しかし最近は、事務方の役人や伝令の兵士たちが駆け回っている姿をよく見かける。そのせわしなさは、グリエバルト魔王国を取り巻く状況が、刻一刻と変化していることを意味しているのかもしれない。現にじゃじゃさまの執務室に向かう途中でも、ハルドールはそれらしい役人たちと何度もすれ違った。
「……いいかな、入っても?」
すでに半開きのドアをノックしながら、ハルドールは執務室の中を覗き込んだ。
「そこに突っ立っていられても邪魔じゃ。はよう入れ」
少女のサイズからすれば巨大すぎる机の向こうで、じゃじゃさまが書類に羽根ペンを走らせていた。かたわらには冷ややかなまなざしのユリエンネ卿が控え、じゃじゃさまがサインをするたびに、またあらたな書類をその前に差し出していく。
「……魔王なんていっても、そうしている姿はふつうに王サマだね」
「力にものをゆわせた恐怖政治をするならともかく、まっとうなやり方で国を支配しようと思えば仕方あるまい。それが法治国家とゆうものじゃろ」
また一枚、書類に目を通して決裁を下したじゃじゃさまは、ちろっとハルドールを一瞥し、空いている席を指さした。
「……で、どうじゃ、我が軍は?」
「相手の強さによるかな」
「どうぞ、勇者さま」
「ありがとう、ミス・ジョルジーナ」
ハルドールが席に着くと、部屋の隅で紅茶の用意をしていたジョルジーナが、その前にすかさずカップを置く。香り高い紅茶でまずはのどを潤し、ハルドールはあらためて答えた。
「まあ、弱くはないよ」
「とゆうと?」
「だって、例のパンダはあれでも魔王の端くれだったんだろう? おまけにミス・グローシェンカはあのパンダよりはるかに強い。要するに、やたらあっさりと蹴散らされたように見えただけで、もともと彼らが戦うには強すぎる相手だったんだよ。ニンゲンレベルでいえば、この国の兵士たちは決して弱くないと思う」
「そうか」
「もしこれからこの国が相手にする魔王たちがパンダレベルなら、彼らをみっちり鍛えれば俺抜きでもどうにかなるだろうね。数と装備で対抗できると思う」
「前にもゆったであろうが? アレは魔王としては下の下じゃ、基準にするな」
「そう? じゃあ、仮にミス・グローシェンカを基準に考えるなら、数をどれだけ増やしても、どれだけ鍛えても、たぶんあまり意味はない。……じゃじゃさまにだってそれは判ってたんじゃないの?」
「……まあな」
真に強い魔王と戦えるのは魔王だけ――だからこそこの世界の支配者は魔王たちなのである。凡人たちが束になってどうにかなるようなレベルの魔王であれば、そもそもこの乱世を勝ち抜いて大魔王を目指すことなどできない。
「……要するに、魔王は魔王同士、配下の軍は軍同士で戦うのがこの世界で許された戦争なんだろう? そういう意味でいえば、じゃじゃさまの軍だってそう悲観するほど弱くはないよ。経験不足で数が少ないのは事実だけどね」
「経験不足はいたしかたない、か……」
「陛下」
ジョルジーナが部屋から出ていくのを待っていたかのように、それまで無言でふたりのやり取りを聞いていたユリエンネ卿が、書類を交換しながらおもむろに口を開いた。
「陛下の野望は重々承知の上で、あえて申し上げます」
「……何じゃ、リアーネ? どうせムカつくような小言であろう?」
「本当にこの国の女たちのことをお考えであれば、覇を唱えるなどとおっしゃらず、まずはこの一年、国を守ることだけに専念していただきたいのです」
「わらわに大魔王になることをあきらめよと申すか?」
じゃじゃさまは顔を上げ、羽根ペンを放り出した。その眉間にはくっきりとしたシワが刻まれている。その気になれば人間など一瞬で消し飛ばせるほどの力を持つ魔王に、不興を買うのを承知で直言できるとは、このユリエンネ卿、女ながら――といっては失礼だけど――驚くべき胆力の持ち主である。
「この乱世が一年で終焉することは、ほかならぬ女神がお決めになったこと……ならば一年持ちこたえるだけでよいのではないのですか? わずか一年、嵐が吹き止むのを待つつもりで――」
「甘いな、リアーネ」
じゃじゃさまは腹心の言葉をさえぎり、鼻を鳴らした。
「――わらわ以外の魔王が大魔王となり、女神から世界を統べる権利を手に入れたらどうなるか、考えたことはないのか? はっきりゆって、わらわほどおだやかな魔王はほかにおらぬぞ?」
確かに平和なこの町を見るかぎり、為政者としてのじゃじゃさまは明らかに有能だった。この町、この国の治世が世界全体に拡大するのだと考えれば、乱世のあとの五〇〇年も人々は平和に暮らしていけるだろう。
「じゃが、ほかの魔王は血の気が多い連中ばかりじゃ。そんなヤツが世界を支配したらどうなるか、よく考えてみよとゆうておる。――たとえばふたつ向こうのアインホルト魔王国では、一〇〇年たっても完成しない大宮殿の造営のために、全国民が非人道的な強制労働させられておる。そのほかにも、ニンゲンと猛獣を戦わせるショーを楽しむ魔王や、定期的に生贄を要求する魔王だっておるのじゃ。もしそんな魔王が天下を獲ってみよ、その魔王国だけでなく、世界全体がそんなことになるのじゃぞ?」
「それは確かに地獄絵図だね。……あれ? でもさ」
ハルドールは首を傾げ、じゃじゃさまに尋ねた。
「そういえば、今回の乱世が始まるまでの五〇〇年間はどうだったんだい? これまでの話を聞くかぎり、じゃじゃさまは今回の乱世に備えて経済発展に注力してきたわけだよね?」
「うむ」
「ということは、それが許されるような大魔王の治世だったわけで……なら、かならずしも次の五〇〇年が最悪なものになるとはかぎらないんじゃないかな? 少なくとも前回の乱世で勝ち残った大魔王は、そういう平和的な魔王だったってことだし」
「それは違うぞ、我が勇者ハル」
「どうしてさ?」
「前回の乱世ではな、大魔王が決まらなかったのじゃ」
じゃじゃさまは熱い紅茶に大量のハチミツを投じてかき混ぜ、ずるずるとすすった。あんなに甘くしたらのどがちくちくしそうな気もするが、じゃじゃさまはうまそうにごくごくやっている。
「何が起こったのかはわらわにも判らぬが……とにかく前回の乱世では、最強の魔王を決めることができなかった。だから世界を誰が支配するかも決まらなかった。そこで女神は、次の四九九年間は大魔王不在のまま、その時点で生き残っておった魔王たちに自治を許したのじゃ。無論、魔王同士が争ってはならぬという足枷つきでじゃがな」
「え? 乱世の終わりには魔王たちはほとんど死に絶えるんじゃないの? だって、最強のひとりが決まるまで戦うんだろう?」
「そういえば、まだそのあたりの肝心なことを話しておらなんだな」
カップを置いたじゃじゃさまは、自分のドレスの胸もとに手を突っ込むと、不思議な輝きを放つ宝珠のついたネックレスを引っ張り出した。
「――これが“女神の宝珠”じゃ。先日、あのパンダも持っておったろう?」
「ああ……兜の額についてたあれ? じゃじゃさまが壊せっていってたやつ?」
「うむ。乱世に覇を唱えんとする魔王は、女神の使徒からこの宝珠をひとつずつ受け取る。いわば大会への参加証のようなものじゃな」
大魔王への道を歩もうとする魔王は、この宝珠をたずさえて強力なライバルたちとの戦いに臨まなければならない。もしこの宝珠を破壊されれば、どんな強大な力を持っていようと、一〇〇万の軍勢を率いていようと、その時点で失格となる。
「……わらわが軍備を後回しにした理由のひとつがこれじゃ。極論、一兵卒すら持っておらずとも、相手の宝珠をみずから破壊してしまえば、それで勝ちとみなされるのじゃからな」
「なるほど……それならふつうの戦争より血も流れにくいかな」
「確かに相手によっては、派手な戦争をするより腕のいい刺客を送り込むほうが効率がよいかもしれぬ」
「……そんな大事なものを兜の額に埋め込んでおくなんて、あのパンダ、何を考えてたんだ?」
「知恵が足りないか、さもなくば自己顕示欲が強かったのじゃろう。いずれにしても大魔王どころか、ふつうの魔王としての器すらないわ」
じゃじゃさまは大事なネックレスを懐に戻し、紅茶を飲み干した。
――つづく
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