湖面の月

奥久慈 しゃも

狐面の月

 細波が立たない湖の水面は、夏の夜空に輝く満月を見事に映し出している。それに加えて、一切のさざめきを起こさない一面の狗尾草えのころぐさは、水際に立つ僕等二人をまるで時間が止まっているかのように感じさせた。

 

 「静かだな」

 

 「そうでもないさ。虫の声はちゃんと聞こえてる」

 

 隣に立つ彼が沈黙を破ると、僕は揚げ足を取るように悪戯に笑って見せた。

 

 「そういうところは相変わらずだな」


 彼は鼻で笑うと地面から手ごろな石を手に取ってはそれを放った。手から放たれた石は直ぐに水面へと音を立て、綺麗に映った月の輪郭を歪めていく。

 

 「まあ、変わっていないことはある意味。俺はほっとしているのかもしれない」

 

 「……そうだね」

 

 彼は照れているのか、僕には少々笑顔がぎこちないように映った。

 からかい甲斐のある場面ではあるものの、僕は敢えて見逃した。僕自身、今度は彼から揚げ足を取られる気がしたからだ。なので、僕は再び視界を正面に戻し、彼と共に未だに歪み続ける水面の夜空を眺めることにした。

 

 「一年振りになるか?」


 彼は仕切り直すように、暫しの沈黙を置いて口を開いた。

 

 「住み慣れた場所だったけど、少し離れただけでこんなにも霞んでしまうものだとは思わなかったな」

  

 僕はそう言いながら、一度は過去形となった故郷への懐かしさをこうして再確認していた。

 

 「ああ。全くだ」

 

 そこで僕たちは会話が途切れると、虫たちの声に再び飲まれた。

 久々に会うはずなのに話題が思いつかない訳ではない。けれども、これと言って選りすぐりのものが思い浮かばない。そんな時に限って過ごしてきた時間の濃淡が出てくることに、僕は少し悔しさを感じた。

 

 「何から話せばいいんだろうね」

 

 僕は投げやりに会話の襷を渡してしまったことに申し訳なく思う気持ちを他所に、彼が言葉を選んでから話し始める時間はそう長くはなかった。

 

 「そうだな……別に無理して話すことも無いんじゃないか。俺はこうして久々にお前に会えただけで充分だ。それ以上の事を望むほど、損得でお前と付き合っていた訳じゃない」

 

 これほどまっすぐに青臭い台詞を真に受けた僕は、些細な緊張感を抱いていた自分がなんだか可笑くて笑い声が漏らしてしまう。それにつられるように彼も口に手を当てて笑った。

 

 「そういうところ、相変わらずだね」

 

 お互いに力が抜けたのか、僕たちはその場に座り込んでは暫く夜空を仰いでいた。その途中、空を見上げている最中に彼の声が聴こえた。

 

 「なあ、お前はどうするんだ?」

 

 「どうするって?」


 僕たちの故郷では井の外を知ることを目的に、決まった年齢になると一年をかけて各々が故郷の外でそれぞれ見識を深める。そして、一年の期間を経て帰郷した僕らの次の選択肢は二つ。

  

 「決まってるだろ。こっちには戻ってくるのかってことだよ」

 

 留まるか、否か。

 世間に見切りを付けてこの地に残るか、未知のものを追いかけるために再びこの地を後にするか。

 その瞬間、見計らうかのように風は強く吹いて水面の月を揺らした。一面の狗尾草えのころぐさが強い風に煽られてさざめき始めると、徐々に僕の思考をかき乱していく。

  

 「ああ……その話ね」

 

 別に察してしなかった訳ではない。けれども、僕はおもむろに言葉を濁して、少し時間を開けてから僕は彼の方を向いた。

 

 「先にそっちの考えを聞かせてよ」

 

 別に考えを否定されることが怖い訳でも、彼から考えを押し付けられるのが嫌なわけでもない。ただ、迷っていた。完全に決めきれていなかったのだ。

 

 「俺はこっちに戻ることにしたよ」

 

 あっさりと帰ってきた彼からの返答は、僕に答えを濁し続ける言い訳を模索する時間を与えてはくれなかった。けれども、もったいぶって口を紡がない訳にもいかない。

 

 「正直……まだ決まってない。ここに戻ってくるまでには考えも纏まるとは思っていたけど、そう単純にはいかないよね」

 

 僕の優柔不断な答えに、彼は特にこれと言った反応は無かった。ただ、彼はそうかと一言だけ呟いては再び湖面へと視線を戻すだけだった。

 会話が途切れ、未だに揺らぎ続ける湖面の月が、何処か僕の心の焦燥を掻き立てようとしているように見えた。けれども、思考に熱が帯び始めようとした瞬間に、彼は再び口火を切った。

 

 「まああれだ、お互いに色んな土地を巡っては様々な景色や人、風土を見てきた。それでも、俺の場合はあまり外の世界に対する関心は然程さほど湧いてはこなかった……」

 

 僕は淡々とした中にどこか虫の輪唱と重なる寂しさを感じながら、そのまま彼の言葉に耳を傾け続けた。

 

 「……どこか生きることに必死で、独りよがりで保守的に見えたんだよ。自分一人で生きている気になっているけど、食べる物や寝る場所すらも他人が作り出したものに依存している。そんな矛盾した考え方が俺にはどうも性に合わない……」

 

 彼は頬杖を突きながら不貞腐れるように、思ったことをそのまま僕へと打ち明けたのだった。

 

 「お前にはどう見えたんだ……外の世界は?」

 

 すると、彼は手を後ろに回して地面に寄りかかると、面と向かって僕へと訊ねた。向き合ってこそ見えた彼の眼差しは、純粋な好奇心として僕から見たものを知りたがっているように思えた。


 「正直に言ってしまえば、僕も君と同じような印象だったよ」


 僕の言ったことに決して嘘は無い。けれども、何故か心の内にしこりの様なものを感じていたことを彼は見逃すことはなかった。


 「だったら迷う必要はないんじゃねーの。ただでさえ新しい疫病とやらで余計に世間はよそ者に対して過敏に目を光らせて、慈善を偽善と揶揄する奴等であふれてる最中だ。そんな中でお前は何が見たいんだ?」


 彼の言うことに間違いはない。現に僕も彼と同じことを思っていたからこその迷いだ。しかし、彼からの言葉の中から反芻しかけた何かを感じた僕は、浮かび上がってきた言葉を一つ一つ拾い上げながら繋いでいった。


 「確かに、最近は他人の行動へ勝手に損得を……色を付けたがる世の中だけどさ。それは、人

間が弱さを露呈出来る唯一の生き物であることの証明だと思うんだ。それに、弱さを隠さないからこそ他人同士が各々の弱さを埋め合わせることが出来るんじゃないかって……少なくとも僕はそう考えてる」


 僕は浮かび上がってくる言葉が出尽くすまで拾い続けた。


 「今は他人の些細な幸せが許せないかもしれない。自分の掴んだ僅かな幸せを独り占めしたいかもしれない。それでも、いつか肩の力を抜いて手を差し伸べようとする人がそう遠くないうちに出てくる気がするんだ」


 「つまりお前は人間の本質にもっと触れてみたいと……」


 彼のやや誇大な例えに、少々むず痒さを感じた僕は慌てて口を挟んだ。


 「大袈裟だよ。それを本質と言えるほど人間はそこまで小綺麗な生き物ではないと思う。むしろ、僕たちが呆れるほどの欲深さこそが人間の本質なんじゃないかな。ただ、僕は人間ってのも悪くないなって思えるだけの理由が欲しいだけなんだよ」


 彼は「なるほど」と言いながら立ち上がって背筋を伸ばすと、一歩先から背中越しに僕へと話しかけた。

 

 「それなら飽きるまで見てこいよ。此処はお前の故郷なんだ。また帰ってきたお前を誰も拒んだりはしないさ」


 そう言って振り返った彼の表情は呆れでもなく、蔑みでもなく、馬鹿にする訳でもない。そんな彼の眼差しも、また諦観ていかんしたものなのかもしれない。

 

 「僕はまだ何も決めたなんて言ってないけど?」

 

 勢いを付けて立ち上がろうとした自分の身体は不思議と軽く感じた。勢いが付きすぎたのか少し前のめり気味に、僕は彼に啖呵を切ったみたいになってしまった。


 「言わなくても、もう決まってるんだろ?」


 それでも彼は冷静に僕の胸中を見透かしたように、悪戯に口角を上げて僕を挑発して見せた。


 「君にも背中を押されてしまったからね。それに、少しは人間にもいい所を見せて貰わないと面白くない」


 「おいおい勘弁してくれ、まるで俺がけしかけたみたじゃないか」


 「違うのかい?」


 僕は素面しらふな態度でわざとおどけて見せた。すると、今度は彼が仕返しを意味するかのように人差し指と中指の二本指で僕の額を小突いた。


 「決めたのはお前だろ?」


 「違いない」


 取り留めのないやり取りをお互いに揶揄しながらも、いつの間にか湖面の月も美しい輪郭を取り戻していた。そして、月の輪郭を崩さないように優しく撫でるような風が僕らの間を通り抜けていった。


 「さて、このまま何もしないのはもったいないな。気晴らしに久々に駆け回ってみるか?」


 「そういうとこ変わって無いね」


 「それはお互い様だ」


 僕たちはそう言って黄金色の尻尾を無邪気に揺らしながら、生い茂る若草色の狗尾草えのころぐさをかき分けながら夜の闇へと溶けていった。

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湖面の月 奥久慈 しゃも @zekreshi

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