第30話 ぬくもり
朝になり、寝室から出てこられたヴィクター様は、「おはよう」とまるで昨夜は何もなかったかのようにいつも通りに振る舞い、いつもと違って頭を撫でたり身体に触れたりされることなく朝の身支度をお世話する私に淡々と従われる。
身支度が終わって、約束より一日早くお暇をいただくことを告げると、私の瞳をしばらく見つめた後、ふぅと溜息をつかれる。
「申し訳ございません。ヴィクター様」
「いや、私の契約違反だ。君のせいではないよ。今までありがとう。ルーシー」
別れを告げる感謝の言葉に視界が潤み、硬い表情で真剣な眼差しを向けるヴィクター様の顔がほころぶ。
「私がただの男なら、何にも捉われず君をさらってしまえばいいだけのことなのだがな」
そう笑いながら私を抱くそぶりをされる。本当に優しいお方だ。
「ふふ、貴方がただの男性なら、私がこれほどまでに心惑わすこともなかったのですが」
「ははは、まったく貴族の身分というのはままならぬものだ。それでは、今日もまた貴族の戦場へ行くとしよう」
ヴィクター様は本心を隠すように笑い、軍服の裾を翻して私に背を向けられる。
私の本心は、どこにあるのだろうか。
「ヴィクター様っ!」
歩を進め部屋を出ようとされるヴィクター様の背中を思わず抱き締めてしまった。
「……失礼しました。ご武運を。ヴィクター様」
「さらばだ。また明日、エドワーズ邸で会おう」
大きく逞しい背中が離れ、その余韻とぬくもりだけが腕に残る。
ヴィクター様は振り返ることなく客室を出られ、重厚な扉がぱたんと閉じられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから荷物をまとめてホテルの出す馬車に揺られ、ロンドンから東へ向かう街道を行くこと三時間余り、エドワーズ領に到着する頃には陽は真上を過ぎたところだった。
領内をまっすぐに横断する道はよく整備され、両脇に広がる近代化された麦畑では育ち始めた小麦が青々と背を伸ばし、道端ではひと仕事を終えた領民の方々が思い思いに集まってそれぞれの時間を楽しんでいた。
「ただいま帰りました。アーサー卿」
サラ奥様と出会う以前のアーサー卿が跡継ぎをあきらめ、エドワーズ男爵家の私財の全てを領民に還元するつもりで行った公共事業の成果は領民の心の豊かさとありふれた幸福となって領内に満ちている。
御者さんへ感謝とねぎらいの言葉とともに別れを告げてエドワーズ邸の門をくぐると、普段は下働きの使用人やお針子さんたちで賑わっているお庭も閑散としていた。
サラ奥様のブティックが独立してフィル様もメリル領へ出られているので、お屋敷の家政の一切を取り仕切るハウスキーパーである母の判断でお屋敷の仕事はおやすみにしているのだろう。
「にゃーん!」
そんな中でもマイペースに仕事をしているのが、ネズミ捕り隊長兼来客のお出迎え役兼お屋敷の居心地確認係のハギス・エドワーズ隊長だ。
「ただいま帰りました。お勤めご苦労様です。ハギス隊長」
「にゃ」
しっぽを立てて高く響く声を出しながらご機嫌な様子で近づいてくる小さなエドワーズ家の末っ子は足元に座り、こちらを見上げて抱っこしてほしそうに見つめてくる。
「はいはい、良い子ですね。今日はネズミは捕れましたか?」
「ふにふに」
抱き上げてシルバータビーのきれいな毛並みを撫でて首の周りをくすぐってやると、鼻を鳴らして目を細め、もっと撫でてと言わんばかりに頭を手のひらに擦り付けてくる。
きっとネズミは捕れなかったのだろう。
人懐っこく愛嬌があってずる賢いのは誰に似たのか。
一番の特徴である中ほどで手前に折れた耳を指でぴろぴろすると、嫌そうに首をぶるぶる震わせた。
「君も未来にはスコティッシュフォールドと呼ばれる貴重な血統を持って生まれたのですから、それに見合った生き方をしなければいけませんよ」
「ごろごろ……」
と猫に言っても仕方がないけれど。
小さくて柔らかくてもふもふな抱き心地に、別れ際に抱きしめたヴィクター様の背中とは正反対だ。
「……私のお相手は君でいいかな」
不意に蘇る今朝の記憶を辿り物思いにふけりながら撫でているうちに、ハギスは撫でられ飽きたのか大きなあくびをしてから身を捩って私の腕から逃れ、庭園の植え込みの向こうに消えていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「母様、ただいま戻りました」
お屋敷の裏の勝手口から厨房に入ると、調理台に大量の食材を並べて下ごしらえしながら機嫌よく鼻歌を歌っていた母が驚いたように飛び上がる。
今日はお休みにしているのになぜこんなにたくさんの食材を用意しているのだろうか?
「あら、ルーシー!? 明日ヴィクター閣下と戻ってくるはずじゃなかったの?」
「予定が変わりまして、1日早く戻ることになりました」
キッチンナイフを置いて振り返った母はエプロンで手を拭きながら目を細める。
「……もしかして、ヴィクター様となにかあったのかしら?」
「何もありません。それよりこの食材は……」
「ルーシー、ごまかそうとしたってダメよ。母さんにはわかるんだから」
話をそらそうと調理台に目をやった隙に、母は私を胸に抱き寄せて頭を撫でてくる。
「何があったかは聞かないわ。あなたが間違ったことをするはずないもの。私の自慢の娘はどこに出しても恥ずかしくない立派なレディに育ってくれた」
「母様……」
これが私の母でエドワーズ家のハウスキーパーであるケイト・ミラーの器量だ。
「でも、もう少し自分に素直に生きた方が良いわ。あなたにはあなたの幸せがあるのだから…… うふふ、例えそれが辺境伯のお嫁さんであっても、ね」
「……冗談が過ぎます」
「ルーシー、多くの貴族が自分の娘を辺境伯夫人にしたがっているわ。その辺境伯閣下に見初められるなんて、平民の娘にとってこの上ない光栄なことよ。身分の違いで苦労することはあるでしょうけれど、あなたならきっと大丈夫よ」
返す言葉が見つからず、返事の代わりに母の背中に腕を回してぎゅっと力を籠める。
それだけで私の気持ちは伝わるはずだから。
「あーあ…… 今日はせっかくご馳走を用意して久しぶりにフィル坊ちゃまと二人きりで水入らずの予定だったのに、ルーシーが来たら坊ちゃまがとられちゃうわね」
だからといってこれだけの量の食材が必要なのかは謎だ。
「フィル様は今日お戻りに?」
「ええ、今朝手紙が届いたわ。向こうに滞在中はメリル子爵家でお世話になっているらしくて、今日の午後に戻ってこられるそうよ」
「そうですか。何かお仕事はありますか?」
「それじゃあ、ハギスちゃんのごはんを用意してもらえるかしら。今日はお屋敷のお仕事はおやすみだから、それが終わったら坊ちゃまが戻られるまでルーシーもゆっくり休みなさい」
「はい」
「あ、そうそう、用意するのは二人分ね」
母はフィルさまも私もハギスも区別なく、みんな自分の子供のように思っているらしい。
「二人分……?」
「うふふ、ハギスちゃん、ガールフレンドができたのよ。知らなかったでしょう? この間紹介してもらっちゃった。真っ白な美人さんよ。この調子だとハギスちゃんが一番乗りかしら」
「ガールフレンド……」
あの浮気者め。
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