第29話 通じる想い、叶わぬ願い

 窓を開けて更け行く夜の街を見下ろすと、生き物のにおいに石炭のすすが混じる春の夜風が頬を撫でた。夜のない街、帝都ロンドンといえど、この時間になると通りを行き交う人はまばらになり、建物の窓から漏れる明かりも一つ一つと消えてゆく。

 窓から顔を少し出してホテルのアプローチを覗いてみても貴賓を送迎するための豪奢な馬車が並ぶばかりでヴィクター様が普段乗られている二人乗り馬車カブリオレは見当たらず自然とため息が漏れた。

 サラ奥様のブティックを後にし、市場で買い物を済ませてからホテルに戻り、ヴィクター様が戻られた時の食事を用意して、料理が冷めるのを気にしつつ針仕事に耽っているうちにこんな時間になってしまった。

 いつもなら公務を終えられたらまっすぐに戻ってこられるはずなのに……

 ガス灯の明かりに煌めくロンドンの街並みを眺めながら、思い浮かぶのはヴィクター様のことばかりだ。


 胸騒ぎがする。


 大英帝国の侵略的外交を主導するパーマストン首相はその強引な手法で王室からも煙たがられる存在であるが、覇権主義的な思想を持つ貴族や貿易で財を成す上流階級からの支持は厚い。今回も一度否決された極東への派兵をめぐっての法案を通すべく庶民院を解散させて多数派工作を推し進めている。義なき戦争、あるいは阿片戦争と呼ばれる戦争を再び起こし、賠償金と阿片貿易の拡大で続く戦禍と不況で疲弊した英国の経済を立て直したい思惑だ。

 私の知る未来ではパーマストン首相の思惑通りに歴史が進み、第二阿片戦争と呼ばれる騒乱の末に欧州列強と清国との不平等条約が結ばれ、それが今後百五十年以上続く世界の秩序の礎になる。


 でも今は、それに対抗する形で英国の伝統的な正義や道徳を重んじるリチャード卿が立ち上がり、旧友であるエドガー卿と協力しヴィクター様の後ろ盾のもとで穏健保守派の貴族たちの支持を集めている。

 英国議会に盤石な政治基盤を持つパーマストン首相に対抗するには、それに比肩しうる地位を持つヴィクター様がどれだけ英国議会に影響力を持てるかが鍵になるのだろう。


 そうであれば私は……

 アーサー卿。貴方がご存命ならば、今の私になんと仰るでしょうか……?


 物思いに耽るうちにいつの間にか、通りを往来する人はほとんどいなくなり、ホテルのアプローチに並ぶ馬車の列もすっかり捌けてしまっている。

 そこへ、一際高い蹄鉄の音が遠くから響いてくる。視線を移すと通りの向こう、ガス灯の明かりに浮かび上がるカブリオレに鼓動が高まり、急ぐ足音アレグレットに同調する。


 ヴィクター様だ。


 室内を確認してドアの前に立つと、しばらくしてノックの音に続いて給仕の声が響く。


「ヴィクター・クロムウェル閣下がお戻りになられました!」


 ドアが開かれて部屋に入られたヴィクター様は私に安堵交じりの穏やかな笑顔を見せられる。


「おかえりなさいませ。ご主人様」

「ただいま、ルーシー。遅くまで待たせてしまったね」


 平穏を装い、いつもどおりのご挨拶を交わすと、客室のドアが静かに閉じられて給仕の足音が聞こえなくなったタイミングでヴィクター様はギュッと私を抱き寄せて甘えるように首筋に顔を埋めてこられる。


「ヴィクター様……」

「今日ほど自分の無力を感じたことはない…… 今日はあの二人に助けられてばかりだ。グレンタレット侯爵が伝統的に名乗っている辺境伯の称号も軍では役に立つが政治の世界ではよそ者の証のようなものだな。クレアの死後、長らくこちらの社交界に出なかったことが悔やまれる ……やはり、君に出会えたことが私の一番の幸運だ」


 私の高鳴る鼓動もおそらくは伝わっているのだろう。ヴィクター様の逞しい腕に抱かれながら、大きな背中に腕を回して抱き締め、幼子をあやすように頭を撫でるうちに、今日の出来事と胸の内を吐露される。


「……それは、違います。侍女の私では真にヴィクター様のお力になることはできません」


 ヴィクター様のお気持ちを知っていながら、自分の想いに気づいていながら、この言葉を選ばなければならないことに、胸が締め付けられる。


「いや、間違っているのは君の方だ。私は君がいるからこそ戦うことができて、君がいるからこそ戻ってこられる。私には、君が必要だ」


 ヴィクター様は身体を離されると、私を捕らえるように両肩をつかみ、正面から私の顔を見下ろして視線を合わせる。


「ヴィクター、様……?」


 先ほどの気疲れを隠す表情とは打って変わって、戦場に立つ騎士の琥珀色の瞳には情熱の炎が灯り、その獲物を狙う視線に射すくめられて思わず言葉を失ってしまう。


「ルーシー、愛している」


 それは、私を抱く代償として、言わないと約束したはずの告白。

 もう伝えられるはずのなかった言葉。

 そして、私が胸を焦がすほどに望んだヴィクター様からの想い。


「そのお言葉は、もう仰らないとっ…… んっ……!?」


 抗議の言葉を遮るように、ヴィクター様の唇が私の口をふさぎ、逃げられないように再びその両腕で抱き締められる。


「はぁ…… 気が変わった。いや、違うな。最初からこうするつもりだった」

「ダメ、です」

「ルーシー。例えどんな困難が待ち受けようとも、必ず君を守り、君とともにそれを乗り越えてみせよう。グレンタレット辺境伯の名にかけて神に誓う」

「それ以上は……」

 ヴィクター様は私を捕らえたまま視線を外さず、まるで私の言葉が聞こえていないかのように滔々とその想いを告げられる。


「もう一度言う。ルーシー・ミラー。私は君を愛している。このヴィクター・クロムウェルの妻に――」

「ヴィクター様っ! なりません!」


 最後の一線を越える言葉をお聞きする訳にはいかなかった。

 咄嗟に出てしまった拒絶の言葉とともに身をよじって私を捕らえる腕から抜け出し、あっけにとられる眼前のヴィクター様の胸を両手で押し、身体を離す。


「あっ…… 失礼、いたしました…… ですが、どうか…… どうか私への想いはもう、お断ちになって、くだっ…… さいっ……」


 ヴィクター様はそれ以上私に何かをなさろうとはされず、言葉を噛み殺すように口を真一文字に結び、ただ寂しそうな瞳を私に向けられるだけだった。

 そのお姿が、その表情が、あふれ出る涙で歪み、滲んでいく。


「ルーシー…… ならば、なぜ、なぜ私のために涙を流す?」

「それは…… 私も…… あっ、貴方、のことを…… 愛しているからですっ……!」


 私に向けられた愛情、誠意、優しさには誠意で応えなければならない。

 これが今の私がヴィクター様に伝えられる精一杯の想いだ。


「そうか…… やっと、君の想いを聞くことができたな。随分と待たされたものだ」


 ただ立ちすくんで涙を流す私の髪にそっと触れ、涙を溜めた両の瞼にキスを下さる。


「ダメです…… ヴィクター様。今優しくされてしまうと、私は壊れてしまいます。もしわがままをお許しいただけるのでしたら、今夜は、どうか独りにさせてください」

「そうか…… わかった。無理に気持ちを押し付けて主の前で涙を流させてしまったな。今夜は君の気持ちを聞けたことだけでも収穫としよう」

「ありがとう、ございます」


 それからヴィクター様は物思いに耽るように言葉少なく、お召し替えと食事を済まされた後は努めて淡々と振る舞う私に「おやすみ。ルーシー」と穏やかに言い残し寝室に向かわれる。


 きっと、これで良かったのだろう。

 明日は予定より一日早くお暇を頂いてエドワーズのお屋敷に戻ることにしよう。


 使用人用のコネクトルームのドアに鍵をかけ、エプロンも外さずにベッドに飛び込むと、顔を埋めた枕に冷たい涙が沁み込んだ。

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