第26話 初めての夜

 リチャード卿の提示した議論の流れで懇親会は予定より早く解散し、リチャード卿とエドガー卿、ヴィクター様は三人揃って今後の計画を立てるために夕闇迫るロンドンの市街に繰り出されていった。

 先ほどまで様々な身分の多くの人で賑わっていた客室が、今はがらんとしている。ヴィクター様は帰りは遅くなるだろうから片付けはホテルの人に任せて先に休むようにと仰っていたけれど、使用人の娘として育った性分がそれを許さず、手配された給仕さんたちには積みあがった使用済みの食器を下げてもらうことだけをお願いし、後は私一人、乱雑に散らかった客室の後片付けを黙々と進める。

 それはまるで、乱された自分の気持ちの整理をするように。


 自分の気持ちにも、ヴィクター様のお気持ちにも、とっくの昔に気づいている。きっと、はじめて出会ったあの日から。でも、それは許されざる想い。叶えられない希望。ずっと気づかない振りをしながら、何かに期待していたのだろう。


 これから私の知っている歴史が大きく変わるのなら、私も傍観者では居られなくなる。あの人のお傍にいる限りは……


 考え事をしながらも体は勝手に動き続けて、いつの間にかすっかり今朝と同じような整然さを取り戻した客室を見回して、一つため息が漏れる。キャビネットからウィスキーのボトルとグラスを取り出してヴィクター様の指定席になっているソファのローテーブルに置き、その指定席の隣の位置に座ってヴィクター様の帰りをお待ちするうちに、忘れていた疲れを思い出して心地よい倦怠感に包まれ、そのまま重力に身を任せて瞼を閉じた。


 気づくと、甘く煤けたウィスキーの香り、そして、唇に触れる感触、深く穏やかな息遣い……


「……!」

「おはよう。お姫様」


 驚いて瞼を開くと、そこには琥珀色の瞳が煌めいていた。その距離感、鼻腔と唇に残る余韻、キスで起こされたのは間違いない。


「ヴィクター様……! 大変失礼いたしました。お待ちしているうちに眠ってしまいまして…… んっ……!」


 高鳴る胸を抑えて謝罪しようとすると、私の言葉を遮って再び唇を奪われ、きつく抱きしめられる。


「謝るのはそこまでだ。先に部屋で休んでいても良かったのに、私の帰りを待っていてくれたんだね」

「……ありがとうございます」


 ヴィクター様は私を抱きしめたまま優しく頭をなでて耳元でささやかれる。

 私の気持ちを知っていながら、この人は……、


「酒を用意して待っていて貰ったところをすまないが、もうずいぶん飲んでしまっていてね。私ももう休むことにするよ…… っと」

「きゃあっ!」


 ダメだと思いながらも気を許してしまい、そのたくましい胸に身をゆだねていると、不意打ちで横抱きに抱え上げられ、思わず声を上げてしまう。


「ははは…… それではベッドへまいりましょうか、お姫様」

「ヴィクター様、ご冗談が過ぎます!」


 身をよじって逃れようとしてもヴィクター様の太い腕はびくともせず、私の抗議の声もどこ吹く風で、それさえも楽しんでおられるようにも見える。


「さぁ、着きましたよ」


 なすすべなくベッドの上に横たえられ、その勢いでヴィクター様も私の太もものあたりに跨って私の右頬の横に左手を着かれ、抵抗する間もなく私の上に覆いかぶさるように顔を近づけられる。


「残念だが、冗談でこのようなことをして許される立場ではない」


 信仰の守護者たる貴族は婚姻関係にある相手としか愛情を交わしてはならない。


 でも、それは建前の話、多くの貴族や上流階級の男性が隠れて愛人を囲ったり娼婦を買ったりしていることは公然の秘密だ。

 それでもなお、この方は奥様が亡くなってからずっとその戒律を守られている。私と褥を共にするときも度を越してお戯れになられることはあるけれど、その一線は決して越えられない。


「それでは、なおさら……」


 拒絶の言葉にヴィクター様の表情が曇り、瞳に寂しさと悲しみの色が映る。ヴィクター様と出会って数えきれないくらいに見てきたけれど、いつになってもその潤んだ瞳の色に胸が締め付けられ、言葉に詰まる。


「んっ……」


 ヴィクター様はそれを認めないように、また私をベッドに押し付けて唇を奪う。

 そして剥ぎ取るように私のエプロンを脱がせ、ご自身も煩わしそうにタイを抜き上着とシャツを脱ぎ捨て、そのギリシアの彫刻のような深い陰影を持つ肉体を揺れるランプの光にさらされる。


「身分の差など、意味のないことだ。ここにいる私はただの男で、君はただの女だ、そうだろう?」

「ヴィクター様……」


 貴方のそのお姿、そのお言葉こそ、肉体からだに古より続く青い血が流れ、精神こころに気高き騎士の魂が宿っている紛れもない証なのです。


 言葉を飲み込むと、その代償のように瞳から涙があふれ出してくる。


「ルーシー、愛している」

「……存じ上げて、おります」


 私も、貴方を愛しています。


 伝えてはならない言葉が、次から次へと雫となってこぼれ落ち、ヴィクター様は何も言わず、私の片目ずつにキスをしてくださる。


「淑女を泣かせた私は紳士失格で、主人に涙を見せた君は侍女失格だな。どうだ、これで対等だろう」

「ぷふっ、ふふふふふ…… 失礼しました。そのような屁理屈は認められません」


 私の涙が収まるのを待ってから、大真面目に、おどけた顔をして仰る言葉に思わず吹き出してしまう。


「ヴィクター様、最初にお褥を共にした時から、貴方に純潔を捧げる覚悟が私にはできております。ですが、そのお気持ちを伝えられてはお傍にいることすらもできなくなってしまいます」

「……わかった。今夜、君を抱こう。この欲望のままに、何も言わず。 ……これで、良いんだな?」

「はい、畏まりました。ご主人様」


 ヴィクター様の瞳に情熱の炎が灯るのを見て、張り裂けそうなほどに早鐘を打つ鼓動とは裏腹に、不思議と心が落ち着いてくる。


 今から私はヴィクター様のものになるのだ。


 ゆっくりと瞼を閉じて静かに息を吐き、想いを隠したままこの身を愛する人に委ねた。

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