第16話 シャーロット・メリル
思わぬ客人の突然の来訪を不思議がられるフィル様に手短にメリル夫人の長女のシャーロットお嬢様のことをお伝えしているうちに執務室のドアが静かに開かれ、フィル様の斜め後ろにさがって姿勢を正す。
ドアを開いて先に入室した母に促され、慎ましい古風なドレスに身を包んだ母娘がゆっくりとフィル様の前に進み出て、二人揃って優雅な仕草でお辞儀をされ、その様式美ともいえる洗練された動作に、普段多くの淑女と接されているフィル様も珍しく「へぇ」とため息交じりに小さくつぶやかれる。
一瞬の静寂の後、再び顔を上げられたお嬢様が顔にかかるプラチナブロンドの長い髪を整え、エメラルドの瞳をフィル様と私に向けられて緊張した面持ちをふわりとほころばせる。
「ご機嫌麗しゅうございます。フィリップ様」
「こんにちは! ようこそいらっしゃいました。シンディ婦人、それに、シャーロットお嬢様。お久しぶりですね。お変わり無いようで何よりです。ハワード卿はお元気ですか?」
「ええ、私も主人も変わりなく過ごしておりますわ。フィリップ様はすっかりご立派なられて。もうすぐエドワーズ男爵位を継がれるそうで、噂に伺っておりますよ」
「あはは、皆様のお力沿いあらばこそです。色々ありまして、まだもう少し時間がかかりそうですが……」
フィル様がにこやかにシンディ奥様と話される間、お嬢様は透き通るような白い頬をうっすらとバラ色に染め、少し瞳を潤ませてじっとフィル様を見つめられ、私の視線に気づくと少しはにかんで更に頬を染めて俯かれる。
「あら、失礼。紹介が遅れました。こちらは私の娘です」
シンディ奥様の紹介の声にシャーロットお嬢様がはっと顔を上げてフィル様と視線を合わせ、再びスカートの裾を少し持ち上げ、片足を引いて優雅にお辞儀をされる。
「はじめまして、フィリップ様。ご機嫌麗しゅうございます。メリル子爵家、ハワード・メリルの長女、シャーロットと申します。以後、お見知りおきを……」
「はじめまして、シャーロットお嬢様。改めまして自己紹介を、エドワーズ男爵家の嫡男、フィリップ・エドワーズです」
フィル様はうやうやしくお辞儀をすると、緊張して頬を赤らめるお嬢様のそばに寄って跪き、そっとお嬢様の手を取られる。
どんな相手にでも下心なくこういうことをするのは、フィル様の良いところであり、悪いところでもある。
「あっ……」
おかわいそうに、お嬢様はフィル様の突然の行動に驚いて小さな声を上げ、フィル様を見つめたまま硬直されている。
「ご主人様、シャーロットお嬢様は来年デビュタントのご予定です」
「ああっ! これは大変な失礼を致しました」
無配慮をたしなめる私の言葉に、フィル様はそっとお嬢様の手を離し、立ち上がって小さくお辞儀される。
「はい…… 申し訳ございません。少し、驚いてしまいまして……」
「いいえ、謝るのはこちらの方です。配慮が足りませんでしたね。 ……ルーシーからもご挨拶を」
フィル様は私からの非難の視線を愛想笑いで躱し、数歩下がってこの場を私に任せられる。
「お久しゅうございます。シンディ奥様、シャーロットお嬢様」
「お久しぶりね、ルーシー」
シンディ奥様はご挨拶を簡単に済まされ、「ほら」とお嬢様の背中を後押しされる。
「ルーシー、ずっと会いたかった」
「私も、またお会い出来る日を楽しみにしておりました」
軽くハグを交わすだけのつもりが、お嬢様は子供の頃ようにのようにぎゅっと抱きついて頬をすり寄せてこられる。重なる胸の感触も、手を添えた腰からヒップにかけてのラインも、未熟な果実のように少女から女性に移り変わる最中だ。
「随分と大きくなられましたね」
「ルーシーはちっとも変わらないわ」
昔を懐かしんでしばらく抱き合った後、寄せた頬を離す際にお嬢様が小さく耳打ちされる。
「フィル様と二人きりでお話がしたいの。お願い、ルーシー」
未婚の、しかもデビュタント前のご令嬢が男性と二人きりになることは、貞淑を疑われないよう本来なら厳に慎むべきことで、お嬢様にも家庭教師としてそのことは重々お伝えしている。それを承知の上で私に頼られるのはよっぽどの事情がおありなのだろう。
この邸宅の中でよく知ったフィル様とお嬢様を二人きりにしたところで悪いことが起こるはずもなく、幸いにもこの場には二人の他には無警戒のシンディ奥様しかおられない。
「……畏まりました」
返事とともに頬にキスして、軽く抱きしめてからそっと体を離すと、お嬢様が安堵の表情を浮かべられる。
「今日は
「私の方から母にご挨拶したいと。突然の訪問でご迷惑ではなかったでしょうか?」
「あはは、迷惑だなんてとんでもない。ちょうどブティックの営業も終えて一休みしていたところです。こちらこそ、お二人にお会い出来て嬉しく思います」
「お庭のバラがよく咲いておりますので、せっかくですから、お花を見ながらごゆっくりお話されてはいかがでしょう?」
「うん、いいね。ルーシーが世話をしているんですよ。年ごとに見事になっていくのが楽しみで、今では我が家の自慢の一つになっているんですよ」
「まぁ、素敵。ぜひ拝見したいわ」
「それでは、こちらへどうぞ、ご案内いたします」
気づいているのかいないのか、フィル様は頷いて私の思惑通りにお二人をお庭に案内される。お嬢様は先導するフィル様の後に従い、私はシンディ奥様と昔話をしながら少し距離を置く。
高く青い春の空の下、傾き始めた陽の光が射す庭園には色とりどりのバラたちが咲き誇る。
フィル様とお嬢様に続いてエントランスを出ると、青々とした芝生の上に丸まっていた灰色の毛玉がもそもそと動いて大きな欠伸をし、伸びをしながら尻尾を立ててこちらにやってくる。
「ハギス。お仕事ご苦労様。お客様だよ。こっちおいで〜」
「にゃ〜ん」
「ハギ、ス……?」
名前はハギス。シルバータビーのショートヘアに金色の瞳、特徴的な折れて垂れた耳を持つ猫で、未来にはスコティッシュフォールドと呼ばれる品種の原種の血を引いているのだろう。去年ヴィクター様がこちらに来られたときに「とうとうハギスを捕まえたぞ」と小さなバスケットに入れて持ってこられてからエドワーズ家の人々に愛されてすくすく育ち、今ではすっかりエドワーズ家の一員だ。
「ご存知ですか? ハイランドに住んでる謎の生き物で、名物料理ハギスの原料にもなってる。ん〜、よしよし。そろそろ食べごろかな?」
「ふにゃ!」
フィル様が足元に擦り寄るハギスを抱き上げ、頭を撫で撫でしながらお嬢様に紹介されると、ハギスは目をまんまるに開いて鼻をひくひくさせ、お嬢様は興味津々に金色の瞳を覗き込む。
「猫…… に見えますが? でも、お耳が垂れ下がっていますね」
「あはは、バレましたか。ハイランドのグレンタレット辺境伯から頂いたんです。耳が折れてるのは生まれつきみたいで、珍しいでしょう? ほら、ハギス。シャーロットお嬢様にご挨拶しなさい」
「にゃ〜」
「かわいい……」
「撫でてみますか?」
「はい、失礼いたします。ハギスさん」
「ごろごろ」
「わぁ、ふわふわしてます」
「あはは、ハギスもお嬢様のことが気に入ったみたいですね」
「にゃ」
フィル様に抱かれながらお嬢様に撫でられ、機嫌よく目を細めて喉を鳴らしていたハギスが小さく鳴き、身体をよじってしなやかな身のこなしで地面に降りる。
「ん、案内してくれるって」
「賢いんですね」
「我が家のネズミ捕り隊長兼お客様へのご挨拶係兼我が家の居心地チェック係ですから」
「うふふ、いっぱいお仕事して、偉いですね。ハギス」
「にゃ〜ん」
「ネズミ捕ってるとこ見たことないけどね。ご挨拶も気に入った人にしかしないし、熱心なのは居心地チェックだけかな」
「にゅ〜ん」
たまには良い仕事をするハギスに案内され、生け垣に咲くバラの花を楽しむお二人の姿が微笑ましく、シンディ奥様も優しい笑みを浮かべてその様子を見守られている。
「前にご挨拶に伺ってからもう四年ですか。その時は可愛らしいお坊ちゃまでしたのに、もうすっかり紳士様の風格をお持ちになられて」
「本当に、時が経つのは早いものです。シャーロットお嬢様も素敵なレディになられましたね」
「ルーシーのおかげでどこに出しても恥ずかしくない娘に育ったわ。あの子の気持ちを考えると少し酷ではあるけれど、あの子の結婚にはメリル家の存続がかかっているから、早く良いお相手を見つけてもらわないと……」
「家のために結婚することは、貴族の娘の宿命です。シャーロットお嬢様にはそのようにお教えしております」
「ありがとう。できることなら、そのお相手がフィリップ様なら良いのですけれど」
「……そう、ですね。私の目からもよくお似合いだと思います」
「ルーシーはどうなの? その様子だと、結婚もまだのようだけど」
「私は、ご主人様が爵位を継がれた後に、ゆっくりお相手を探そうと思っています」
「あら、ダメよ。女は二十五を過ぎたら年をとるなんてあっという間なんだから」
「ふふ、お気遣い感謝いたします。そうですね、そのためにはご主人様には来年までに素敵なご令嬢とご婚約していただかなければなりません」
「ぷっ、やっぱり貴女は相変わらずね」
そうしてシンディ奥様とお話しているうちに、フィル様とお嬢様はぐるりとお庭を一周りして戻ってこられる。その後少しの間三人で和やかなお茶の時間を過ごされ、日が沈む前にご自宅へ戻られるようメリル家の馬車に乗ってエドワーズ邸を後にされた。
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