第8話 追憶と別れ

 朝を迎えると、フィル様はすっかり子供に戻り、私の胸に顔を埋めて静かに寝息を立てていた。

 起こさないようにそっと身体を離し、ベッドから降りて身支度を整えて荷物をスーツケースにまとめ、ホテルを出る準備をする。「おはよう」と寝ぼけ眼をこすりながら起きてこられたフィル様の身だしなみを整え、朝食を終えてチェックアウトを済ませると、ちょうどよい頃合いで迎えに来た父の馬車に乗り邸宅への帰途へと付く。


 フィル様と肩を並べて馬車に揺られてしばらく、長い馬車での旅路にお疲れの様子のフィル様もエドワーズ家の領地に入るとお久しぶりの故郷の景色にすっかり元気を取り戻され、領民の皆様への帰郷のご挨拶も兼ねてゆっくりと領内を回ることになった。領内は今日も穏やかで、子どもたちが賑やかに遊び回り、畑仕事をする人たちも仕事の手を止めてフィル様に手を降ってお出迎えしてくれて、フィル様も満面の笑顔で大きく手を振り返して応じられる。

 領民から敬われ、親しまれ、愛されることは領主たる英国貴族の必須条件だ。フィル様もお父上のアーサー卿と同じように領民から愛される善き領主となられることだろう。

 そうして領内を一周りしたあと惣長を訪ねて現在の領内の様子をあれこれと聞かれ、その後は教会に寄ってお祈りを済ませた後、揃ってアーサー卿のお墓にご挨拶をして邸宅へと戻った。


 帰宅後はサラ奥様にご挨拶をした後、長らくエドワーズ邸の開かずの間となっていた生前のアーサー卿が使われていた執務室へとご案内する。鍵を開け、新たなあるじをお通しすると、アーサー卿が亡くなられた日のまま止まっていた部屋の時が再び動き出す。


「わぁっ! ここで父様がお仕事していたんだね!」

「はい、これからはここがご主人様の執務室になりますので、ご自由にお使いいただいて結構ですよ」

「おっきい机。ねぇ、父様っていつもここに座ってたの? 僕も座っていい?」

「ふふ、もちろんです。それでは、お茶とお菓子をご用意いたします」

「あ、ルーシーの分もね。ダメだよ。言わなかったら僕の分しか持て来てくれないんだから」

「……畏まりました」


 遠い記憶の向こうの懐かしい光景。胸に、目に、熱いものがこみ上げ、執務机に座ってこちらを見つめるフィル様の顔が涙で滲み、景色が歪む。


 ――ああ、しまったな。二人分って言い忘れてた…… ルーシー、良い子なのはわかってるから、私と二人きりのときくらいは年頃の女の子でいてくれないかな?


 ――私は君のことも、ダニエルとケイトのことも、ただの使用人だなんて思ってはいないよ。


 ――さぁ、こっちに来て、お茶にしよう。また君の夢のお話を聞かせてくれるかい?


 ――本当に聞けば聞くほど不思議だね。今まで人類が歩んできた歴史を考えてみても、君のお話はこれから現実に起こる出来事にしか思えないよ。


 ――今度は私から、未来のお話をするよ。サラが私の子を授かったらしい。あはは、喜んでくれるかい? 男の子だったらフィリップ、女の子だったらトリーシャって名付けようと思ってるんだ。


「……ルーシー? 泣いてるの?」

「失礼いたしました。ご主人様のお姿を見て、お父上と過ごした日のことを思い出してしまいました」

「父様の…… 悲しい思い出?」


 ――ルーシー、私に残された命はもう長くないようだ。もしかしたら、我が子の顔も見られないかもしれない。その時は、私達の子が幸福な人生を歩めるよう見守ってほしい。もちろん、君も必ず幸せになるんだよ。私からの最期のお願いだ。


「いいえ、これは、幸せの涙です」

「こっち来て」


 腕を広げるフィル様に身体を寄せ、その胸に顔を埋めると、そっと背中を抱いて頭を撫でられる。


「ルーシーが泣いてる所、初めて見た」

「ご主人様に涙をお見せする訳にはまいりませんので」

「良いんだよ。二人の時くらい。僕は君の主なんだから」

「はい、それでは、お言葉に甘えさせていただきます……」


 暫くの時間をフィル様の胸に抱かれて過ごし、改めてお茶を用意するために執務室を出て厨房へ向かう途中、「失礼します」と奥様の執務室を退室した母がドアを締めて少し離れ、緊張した表情を少し緩めて小さく溜息を吐く。


「母様、如何なさいました?」

「ああ、ルーシー、ちょうど良かった。クロムウェル辺境伯閣下がお見えになられているわ。フィリップ様にお会いしたいと。奥様とお話を済まされたら面会されるから、あなたはフィリップ様の執務室で待機していなさい」

「クロムウェル閣下ですか。昨日の舞踏会でお目に掛かりまして、ご挨拶に来られたのだと思います。事情は承知しておりますので、ご心配なさらないでください」

「ええ、あなたのことだから心配ないけれど、クロムウェル閣下のような大貴族様がここに来られるのはアーサー卿がご存命の時以来だから、私の方が緊張しちゃって。くれぐれも失礼のないようにね」

「ふふ、私を一人前の侍女として育てて下さったのは母様ですよ。自分の娘を信じてください」


 ――コン、コン、コン、コン


「クロムウェル閣下がお見えになられました」


 執務室に戻って暫く経つと、執務室に乾いたノックの音が響く。フィル様が母の声に返事をすると、ドアが開かれ、フロックコートに身を包んだ逞しい長駆の男性が威風堂々と部屋の中央まで進み出る。


「こんにちは、フィリップ・エドワーズ卿。ご機嫌はいかがかな? 突然の訪問ですまないな。改めて自己紹介を。グレンタレット辺境伯、ヴィクター・クロムウェルだ」

「ようこそいらっしゃいました。ヴィクター・クロムウェル閣下! ご機嫌麗しゅうございます。フィリップ・エドワーズです。このような所にまでご足労いただき光栄です」


 執務室にヴィクター様の威厳に満ちた低音が凛と響くと、フィル様は変声期の甘いハスキーボイスで挨拶に答え、ヴィクター様の前に進み出て右手を差し出す。


「こちらこそ、君に会えて嬉しいよ。突然の訪問で迷惑でなければ良かったのだが」

「いいえ、そのようなことは。ちょうど私達も先ほどこちらに戻ってきたところでして、良いタイミングでした。私のことはフィリップとお呼びください」

「そうだな、少々無礼かもしれないが、フィリップ君、でよろしいか? 私のこともヴィクターで構わない」

「えへへ、そのほうが嬉しいです。よろしくお願いします。ヴィクター様」


 屈託なく笑顔を見せるフィル様にヴィクター様は目を細めて握手を交わす。


「ヴィクター様、ご機嫌麗しゅうございます。こちらのソファへどうぞ」

「昨日は有難う。ルーシー嬢。危うくサーストン卿の面目を潰してしまうところだった。ダンスも楽しかったよ」

「私の方からも、ご配慮賜り感謝いたします。こちらの社交界は少々特殊ですから、戸惑われるのも仕方のないことだと思います」

「ははは、全くその通りだ。それにしても、よく私だとわかったね」

「そうですね。お召し物のタータンのパターンでグレンタレット辺境伯だとお察しいたしました」

「なるほど。優秀な使用人が居てエドワーズ家も安泰だな」

「光栄にございます」


 ソファにどっしりと腰を下ろしたヴィクター様にお辞儀をして下がると、フィル様がヴィクター様の向かいにちょこんと座られる。


「随分お若いようだが、フィリップ君はおいくつかな?」

「はい、今年で十四になります。先月パブリックスクールを卒業して、昨日が社交界のデビュタントでした」

「ほう、初めての場であれだけ堂々と振る舞えるか、随分肝が座っておられるようだ。私の肩書きと風貌も怖がられることが多いのだがな」

「えへへ、幼子のように恐れを知らないだけかもしれません。ヴィクター様のことは一目お見かけしたときから風格ある紳士だと感じていまして、ルーシーとのダンスがすごく綺麗で、お優しく思慮深い方だと確信しました」

「ははは、私が優しいか。親しい者からはそのように評されることもあるが、初対面で面と向かって言われるのは初めてだ。ふむ、なかなか見どころがある。将来はどうされるおつもりか?」

「ありがとうございます。すでに高等課程を終えましたので、九月からは大学で学び、卒業と同時に男爵位を賜われるよう研鑽に努めています。将来は文官か学者か、エドワーズ家の名に恥じない役職に就きたいと思っています」

「良い心がけだ。エドワーズ家について聞かせていただけるかな?」

「はい、エドワーズ男爵家は代々文官を務めていた家系で、この一帯を領地として治めています。私の父、アーサー・エドワーズは慈悲深い領主でした。領民への過酷な徴税を行わず、子どもたちには教育を、病める者には医療を、飢える者には食料を施し、弱き者に手を差し伸べるうちに財を失い、一度は領地を手放し破綻しかけるところとなりましたが、多くの幸運に恵まれて家計を立て直し、領地を取り戻すことができました。心無い人は父を愚かな領主だと言いますが、現在のエドワーズ家の領地は近隣に比べ識字率は高く、飢えや病もなく、善良な領民が幸福に暮らしており、父が苦心して播いた希望の種はここに確実に花を咲かせ、実を結びつつあると確信しています」

「さぞ立派なお方だったのだろう。君とルーシー嬢を見ればアーサー卿のお人柄がよく理解できる」

「ありがとうございます」


 ――コン、コン、コン、コン


 ノックの音が響き、母が静かにティーセットをお二人にお出しする。ヴィクター様はティーカップに口をつけ、ゆっくり瞬きし、静かに息を吐き、フィル様を見つめる。


「今度は私の方から話しをさせてもらおう。私は今年で四十になるのだが、独り身で世継ぎがいない。十五年前に身重の妻を病で亡くしてな。新たな妻を迎えるのは本意では無いのだが、立場上そうも言ってられないのでこちらに出向いたというわけだ」

「そうでしたか…… 奥様を、愛していらっしゃるのですね」


 低音の穏やかな声で思い出を語るように説明するヴィクター様に、フィル様は心中を察するように目を細めて静かに答える。ヴィクター様は「ああ、そうだな」と呟き、再びティーカップに口をつける。


「そこで、世継ぎを得る別の道として、優秀な男子を養子に取ることも考えているのだが……」

「私、ですか?」


 ヴィクター様はにやりと笑い、琥珀色の瞳がはっと驚くフィル様を映す。


「そうだな、君の話を聞くまではそう思っていたが、どうやら当てが外れてしまったようだ。グレンタレット辺境伯はハイランドの古くから続く軍人の家系だからな。おそらく君が志すものとは違う生き方を強いることになるだろう。……少々残念ではあるが」

「そう、ですね。私は父の歩んだ道を継ぎ、学問で国に貢献し、生まれ育ったこの領地を豊かで幸福に暮らせる土地にしたいと思っています。……ご期待に添えられず申し訳ありません」

「いや、私が勝手に望んだことだ。気になさるな。その代わり、と言ってはなんなのだが、頼みを聞いてもらえるだろうか?」

「ヴィクター様が、私に、ですか?」


 権力も、経験も、財力も、全てにおいて上回るヴィクター様からの意外な申し出に、フィル様は目を丸くして首を傾げられる。


「君とルーシー嬢に、だな。こちらには妻か養子の候補を探すため、あと三日滞在する予定になっているのだが、その間ルーシー嬢に私の侍女として付いて欲しいと思っている」

「それは…… お答えするまでもないでしょう。ルーシーがヴィクター様のお役に立てるなら、私としても光栄なことです」


 ちらりと私を見て答えるフィル様に、ヴィクター様は満足げに微笑む。


「そうか、感謝する。ルーシー嬢はどうかな?」

「私はあるじの指示に従うまでです」

「ルーシー、すぐに支度を。これから三日間、ヴィクター様が君の主だ」

「畏まりました。フィリップ様」


 一礼して退室し、支度を整えて執務室に戻ると、既に話を終えたお二人が握手を交わしていた。


「今日は君と話ができて良かった。ルーシーのことも感謝する」

「こちらこそ、ヴィクター様と親交を深めることができて、お役に立てて嬉しいです」

「これから君が歩む道の手助けになることがあれば、なんでも言ってくれると良い。それでは、行こうか」

「ヴィクター様、お達者で。ルーシー、しばらくの間会えないけど、僕のことは心配しないでね」

「はい、フィリップ様。いってまいります」

「うん、いってらっしゃい」


 その後、奥様と両親に別れを告げてエドワーズ家を後にし、日が傾きはじめる中をヴィクター様の操る馬車カブリオレに乗って帝都ロンドンへと向かった。

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