第9話 二人の時間(1)
沈みゆく夕日を追うように
「少し、大人気なかったか」
ヴィクター様は遠く前を見たまま、ポツリと呟くように私に問われる。
「いいえ、このようなことは社交界ではよくあること。フィリップ様には必要な経験です」
「彼は立派だったよ。理不尽な選択を突きつけられて悔しかったろうに、面に出さず懸命な判断をした。もしかしたら私より大人かもしれんな。君も、主の意思に応えてよく冷徹に対処できたね。君も辛かっただろう?」
フィル様は序列の掟に従って、笑顔で私をヴィクター様に差し出した。フィル様をひどく傷つけるとわかっていても、私はその決断に応えなければいけない。
「ヴィクター様で良かったと、心から思っております」
「そうか。どうやら彼は良い使用人を持ったようだ」
「恐れ入ります」
再び沈黙が訪れ、馬車はガス灯の光が灯り始める市街中心へと近づく。ヴィクター様は思いついたように突然手綱を引いて馬車の速度を落とす。
「ところで、深刻な相談があるのだが、聞いてもらえるかな?」
ヴィクター様は真剣な表情をこちらに向け、燃える夕日を映す琥珀色の瞳で私を見つめる。
深刻な相談。という言葉とそれを裏打ちするそのお顔に、不安で胸が締め付けられ、気取られないように息を呑む。
「はい、どのようなお話でしょうか?」
「……どこか、まともなものが食べられるところをご存知か?
ヴィクター様は首を傾げて眉間に皺を寄せ、ひどく困ったような顔を見せて、すぐに口角を上げてにやりと笑う。
「ぷふっ…… ふふっ、そうですね、それは、深刻です。ふふふ…… 失礼いたしました。私も、ここに生まれて二十二年になりますが、いつまでたってもこちらの料理には馴染めません」
不意打ちのジョークに吹き出してしまうと、ヴィクター様は満足げな笑みを浮かべて視線を前方に戻し、手綱を捌いて馬車を走らせる。
「そもそも、あれらを料理だと言い張るのは料理への冒涜だな」
この国の料理の酷さは有名だ。ほとんど下ごしらえしないぶつ切りの食材をろくな味付けもせず、風味が飛ぶまでひたすら煮たり焼いたり揚げたりするのが調理の基本なので、素材本来の味も食感も損なわれ、味も香りもないのに臭みだけ強い、空腹を満たし栄養を取るためだけの物体が料理と称される。
「ふふ、アーサー卿は『人類の叡智の敗北』、サラ奥様は『恥ずべき文化』と仰っていました。私といたしましても、うなぎの煮凝りなどは悪夢としか言いようがありません」
「ふはははは、君もそのように笑うのだな。怖がらせてはいないかと心配していたよ」
「感情を面に出さないのは使用人の心得です」
私の言葉で豪快に笑い、ちらりとこちらを見るヴィクター様の表情は先程よりも穏やかだ。
「それでは、サラ奥様行きつけの料理店をご案内いたしましょう」
「ほう、あのご婦人の行きつけか、それなら安心だな。君にも同席してもらう。普段着のドレスは持ってきておられるか?」
「持ってきておりません。ヴィクター様の前で侍女でない格好をするのはフィリップ様への裏切りになります」
「ふむ、確かに筋金入りだな。しかし、私に一人で夕食を摂るような無粋をさせるのも君の望むところではなかろう?」
承諾を促すように問いかけるヴィクター様がこちらを向いてにやりと笑う。
「仰るとおりではありますが……」
「エプロンと頭のを外すだけで構わないさ。それならどこぞの田舎者の父娘にでも見えるだろう」
「……畏まりました」
ヴィクター様は前を向いたまま「そうか、父娘か……」とご自身の言葉を確認するように小さく呟いて皮肉交じりの笑みを浮かべる。
街道の脇に幻想的に輝くガス灯が並び、市街の中心に近づくにつれて往来する馬車が渋滞の列をなしはじめる。やれやれ、と言った様子で溜息を吐くヴィクター様は二人きりのじれったい時間を楽しむように穏やかだ。
空が紫色に色づき、煌々と灯る街明かりが照らす中、雑踏はサマーホリデーに浮かて賑やかなざわめきに溢れている。馬車は相変わらずののろのろで、ヴィクター様の泊まるホテルについた頃には夜空に星が瞬いていた。
ホテルに到着し、出迎えるホテルマンの案内で通された客室は広い執務室と簡素なキッチン、使用人用の部屋が付いた最上級のスイートルームで、ヴィクター様は「あまり贅沢をする主義ではないのだが」と前置きした上でキッチンと使用人の寝室がある客室がここしかなかったのだと言い訳をするかのように説明された。
荷物の整理と夜会の準備を済ませ、街へ出てサラ奥様行きつけの料理店へと向かう。ヴィクター様は私の鞄を奪うように持つと、仕立ての良い古風なフロックコートと飾り気のないなワンピースドレスを着た二人は確かに田舎から出てきた父娘に見えなくもないだろう。
裏通りの一角にあるその料理店で地中海料理のコースを注文するして待つ間、ヴィクター様はフィリップ様や私のことを興味深そうに聞かれ、代わりに故郷の高地地方の話をして時間を過ごしていると、この国ではなかなか味わうことのできない素材を活かした繊細で彩りある料理が出されて、ウィスキーとともにそれを上機嫌に召し上がられるヴィクター様と食事をともにした。
再び夜の帝都を暫く歩き、舞踏会の会場に到着する。持参していたエプロンとヘッドドレスをつけて侍女の格好に戻り、受付を済ませてボールルームへ入ると、フロア中の視線がヴィクター様に注がれ、あちこちでひそひそ話が始まる。
「あまり目立たないようにしているのだがな……」
「ヴィクター様がこちらに出られてお相手探しをされていることは、昨日のことで皆様既にご存知のようですね」
「まったく、そっとしておいて貰いたいものだな」
「上流階級の奥様方は浮いたお話が大好きですから。こればかりは諦めてくださいませ」
「はぁ…… ままならぬものだ」
お相手探しの作戦を話をしようとする前にヴィクター様はあっという間にご挨拶に伺われる人々に巻かれてしまい、戸惑いながら対応されているうちに開会の辞が述べられて一曲目の演奏が終わり、ようやく挨拶の列が途切れる。
「ふぅ、やっと一息つけそうだ。待たせてしまったね、ルーシー」
「いいえ、大切なことですから。見渡してみて気になるご令嬢はいらっしゃいますか?」
ヴィクター様はゆっくりとフロアを見渡し、浮かない顔で眉をひそめて首を傾げる。
「正直に言うと、さっぱりわからん」
「でしたら、あちらのご令嬢をお誘いなさってはいかがでしょう? 十七歳の男爵令嬢で容姿端麗、品行方正、評判も家柄も良いお嬢様です」
「ふむ、可愛らしい娘ではあるが、よもや親子ほども歳の離れている少女を妻の候補として見ることになるとは……」
「さ、侍女とばかりお話しなさっていないで、紳士は積極的にご令嬢をお誘いするのがマナーですよ」
「君は意外と強かだね。そのような印象はなかったのだが。仕方がない。行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
気の進まない様子で溜息を吐くヴィクター様は、ご令嬢を驚かさないようにゆっくり近づき、少し怯えた様子のご令嬢に遠慮がちに声を掛けて右手を差し出される。まるで猛獣が小動物と接するかのようで、少し微笑ましい。
二人でフロアに出られ、ワルツの演奏が始まると、何かを囁いてご令嬢の歩幅にぴったり一致する一歩をゆっくり踏み出される。先程まで怯えていたご令嬢は安心したようにヴィクター様に身を任せ、大きく優雅にターンを繰り返してフロアを周回してフロア中の注目を集める。
その後も私がお薦めするご令嬢やご両親から紹介されるお嬢様とダンスをともにされ、閉会を迎えた後はほろ酔いの紳士たちの下品な話の輪に加わることなく、さっさとホテルに引き上げることになった。
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