第14話

 和人に関わる事案の顛末は、結局、水森の言った通りになった。

 監察の件は、副本部長自らが巡視を行い、署員らに指導するということで収まった。褒賞の件は、署内で行う分には構わないということになった。

 水森は、「どうせ副本部長が来たって、六文字さんとお茶飲んでおしまいなのよ」と笑っていた。

 署長はじめ課長、大隊長らは、そんなことを知ってか知らずか、安堵の顔を隠そうともしなかった。


 交代を数分後に控え、和人は、夏木田たちと車庫裏に整列していた。

 六文字と副本部長の関係を話すと、それは皆が知っているよということだった。「ま、腐れ縁ってヤツだね。皆、あまり気にしていないさ」

 六文字は「副本部長のヤツ、俺が見逃してくれって頼んだら、逆に『実習生は、実戦を学ぶために現場に出ているのだろうが、現場で活動するのは当然のことだ。正規の隊員でないからなんなのだ、実習生はもっと堂々としていていいのだ』って怒鳴られちまったよ」と苦笑していた。

 本部の頭の固い連中が四角四面の金縛り的な思考をもっていたために、今回の「実習生実災害に使うなどとんでもない、何かあったらどうするのだ」という事態に発展したらしいのだ。

 やがて、交代の時間を告げる署内放送が流れた。

「さあ、交代だ。笹渕、これで最後だ。挨拶、きっちりやれよ」

 交代、申し送りを終え、和人は整列している皆の前に立った。上番と下番、総勢四十名を目の前にし、最後の挨拶をするために直立不動の姿勢を取り、挙手注目の敬礼をする。

 正面に直ったとたん、急に喉の奥からこみ上げてくるものがあった。飲み込む要領で、ぐっとこらえる。

 実習初日の挨拶、訓練で絞られたこと、初の出動、シャワー事件、まさかの現場活動、数々の思い出が、走馬灯のように目まぐるしく頭の中を駆け巡った。

 喉が詰まり、言葉がうまく出ない。こんなことは初めてだった。けいれんを起こしたように喉が震える。

「お、お世話に、な、なりましたぁ」

 このひと言を言うのが精一杯だった。

 皆が拍手をしてくれた。和人は挙手ではなく頭を下げる最敬礼をし、列に戻った。挙手敬礼では、とてもとても自分の気が済まないという気持ちを表したつもりだった。

 白島の「解散」を合図に、皆は「お疲れさん」と近寄ってきて、代わる代わる和人の肩を叩いたりして、労ってくれた。

 大隊長、白島中隊長、楢岡小隊長、夏木田士長、六文字機関員、井上救急隊長、そして水森士長。皆の顔が滲んで見えた。

「おい、この寒みいのに汗かいているのか。ほっぺた濡れてるぞ」

「え」

 六文字に指摘され、和人は自分の右肩に頬をこすりつけた。鼻孔を大きく膨らませ、上を向いてゆっくりと深呼吸をする。

 どんよりとした雲の切れ間から、ひと筋の光が漏れていたが、すぐに滲んでぐしゃぐしゃになった。

「打ち上げ、やるからねえ、来るのよぉ」

 水森の声が、やけに素直に耳に入ってきた。


 消防学校の卒業式。式典を終えた和人たちは、校庭で二列横隊となり、教官を待つ。

 皆、今日の空と同様、晴れ晴れとした顔をしている。飯島は、これまでの日々に思いを馳せているのか、遠くを見つめ、うっすらと涙を滲ませていた。

 微風が頬を撫でていった。空はどこまでも青い。

 やがて岩川担当教官が正面に立った。最後の対面である。いつになく穏やかな目をしている。

 訓練でも座学でも、何をやっても「お前たちは最低最悪のクラスだ」と怒鳴られた。しかもほぼ毎日。それでも我がクラスは「どうせ俺たちは」と開き直ることもなく、投げやりになることもなかった。教官は俺たちをそこまで見越して叱咤していたのだろうなと今は思える。

「敬礼!」場長の声が響くと同時に、挙手注目の敬礼が行われた。

「直れ!」敬礼を解くと、皆の視線は教官に集中する。

「休め!」の号令のあと、教官は軽く咳払いをし、話し始めた。


「諸君、卒業おめでとう。今日までよく頑張りました。しかし、君たちはやっとスタートラインにたったところです。ここからが本当の始まりです。今後は実務の中で、己自身がいかに研さんを、努力をしなければならないかを実感するでしょう」

 いつもの命令口調とは違い、ですますで話している。学生と教官という関係ではなく、同じ職員同士として話しているということか。

「さっき教場で配ったものは、わたしも先輩から受け継いだものです。すぐ役に立つというものではありません。これから先何年かした後、あるいは何十年後かにようやく気がつく、そういうものです。ふと気づいた時に目を通すことで、そのたびに自分を見つめ直すきっかけになるものです。君たちが消防の世界にいる以上、たとえ現場から離れていようと、どんなポジションにいようと、これを見れば、これを思い出せば、自分の原点に帰れる。この世界を目指した時の自分を思い出せる。自分がなぜここにいるのかを、再認識することができるはずです。

 教官は、感情を高ぶらせることもなく、淡々と話す。

 忘れないでください。君たちは、災害に苦しむ現場の人々から期待されていることを。希望を、安全を、そこに行きたくても行けない、全ての人々から願いを託されていることを忘れないでください。

 苦しかったら、どうにもできなかったら振り返ってください。君たちはひとりではないのです。君たちの後ろには、署員、本部員はもちろん、全国の消防職員が控えていることを忘れないでください。皆で力を合わせて困難を乗り越えるのです」

「はいっ!」全員が一斉に応えた。

「これからの道は、誰もが歩む道であり、歩んできた道でもあります。私も例外ではありません。失敗を恐れず、先輩たちの知識や技術を学び、一歩一歩確実に歩み続けてゆくことを希望します。

 君たちは、人々から、安全を、安心を託されています。その期待に応えられるよう、熱い気持ちを忘れないでください。わたしも、君たちに思いを託します。

 自信をもって、堂々と胸を張っていけ、前進あるのみ!」

 皆が頷いている。気配でわかった。

「頑張ってください。以上」

 実務実習直後に行われた報告会。和人は、実習で火災に出動し、正規の隊員の代わりに災害活動したことを、教官はじめ、皆に報告した。いい経験をしたなと教官は微笑んでくれた。教官が頬を緩めるのを皆初めて見た。

 消防職員として二十年近い経歴の半分は、レスキュー隊員として現場を駆けまわっていた岩川教官。熱しやすく冷めにくい性格、規律第一主義、「現場の鬼」が代名詞である。

 そんな岩川教官が送ってくれたものは、「君たちに託す」という詩だった。


    君たちに託す


  ススと汗の顔で 焼け跡に立ち続ける君

  主のいなくなった 花柄の小さな靴が

  片方だけ 焼けもせずに残っていた

  静かに目をそらし 目をそむけた君

  力のない背が小刻みにふるえていた

  泣くな! 若き消防官よ

  君のその優しさがあるかぎり

  安全への挑戦を 君たちに託す


  鼻をつく濃煙の中から 顔を出す君

  鷹の目のような眼光 キッと結んだ口元

  再び煙の中へ消えてゆく君

  もう何度も繰り返されている男の戦いだ

  怒れ! 若き消防官よ

  君のその信念があるかぎり

  安全への挑戦を 君たちに託すのだ


 和人は実習で世話になった夏木田たちの顔を思い浮かべながら、上を向き、大きく静かに深呼吸をした。

 場長が二列横隊に並んでいる和人らの正面に立った。

「解散!」と敬礼した直後、歓声とともに、同期生たちの制帽が、青い空に乱れ飛んだ。

                                 (了)

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消防学生、託される @july31

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