第13話
メシを食う気になどならない。
和人は先輩たちのプロ意識に圧倒されていた。本部の指摘に対し、まさか皆が、あんなに自分の意見をはっきりと言うとは思わなかったのだ。もちろん和人のために言ってくれたとは思っていない。上からの指示命令は、ある意味絶対だ。そうしないと、災害活動時の統制がとれなくなる。効率良い行動がとれなくなる。助かる命も助からなくなってしまうのだ。しかしそれは、隊員一人ひとりが己の信念の下に起こす行動なのだ。納得がいかなかったら意見をぶつける。当然といえば当然なことだった。和人は皆を頼もしいと思うと同時に、自分はどうなのか、そうなれるのかと自問した。
(俺も先輩がたみてえになれるだろうか、なりてえ)
ただ、結果はこちらの思うようにはならないだろうと和人は考えていた。
(んだってなあ、なんとすんだが。結局は大隊長と本部とが話合って決まるんだべな。下々の者の言い分なんか届かねえべ)
では、どうしたらよかったのだろう。
あのとき、誰もいなかった。隊としてどう行動すればよかったのだろう。
俺はお客さんだから、見学に徹していればよかったのか。
人手が足りないまま四苦八苦している隊の先輩たちを、見ていればよかったのか。
階段を下りたはいいが、行く当てがない。いたずらに何度か踵を返す。車庫内は外の空気が直接入ってくる。寒風に身体を晒す気分ではない。
上からの指示命令は、ある意味絶対だ。そうしないと、規律の組織は成り立たない。統制がとれなくなる。いざという時に効率良い行動がとれなくなる。助かる命も助からなくなってしまうのだ。
(んだってなあ、こうなってしまえば、もう、なんとなるんだがわがんねえよな。ま、結局は、課長とか幹部同士が話し合って決まるんだべな。下々の者の言い分なんか届かねえべ)
和人は通路を奥へ進み、救急隊の寝室前に差し掛かった。救急隊は夜間でも頻繁に出動するので、寝室はポンプ隊とは別になっているのだ。
裏庭へ抜けるドアの手前にあるベンチに腰を下ろそうと思い、進んだ。
救急隊の寝室前に差し掛かったとき、話し声が聞こえた。
「……おう、悪いな。……そうそう、……だからよう、今回は仕方がねえべって、頼むって、な」
声の主が誰なのか、すぐに見当がついた。和人はいつの間にか、足を忍ばせ、ドアに近寄って耳をそばだてていた。
「だからよお、頼むって。うん、ああ、緊急避難的な考えでどうだ、ダメか」
六文字は誰と話しているのだろう。話の内容はどうやら例の活動評価の件らしい。
「まとまりそうなのかしら」不意に背後で声がした。
「え?」和人は声のした方向へ反射的に首を捻った。同時に石鹸の臭いが鼻をくすぐる。和人は背筋を伸ばし身体ごと反転した。
水森だった。ほとんど素顔と言っていいほど薄化粧だった。シャワーを浴びてきたらしい。髪をアップにしているので項が艶めかしい。
(いい度胸だなや。朝だからって、出動あったらなんとするんだ)
そのシチュエーションを想像したが、あらぬ方向へ行きそうだったので、途中で止めた。
かすかにそばかすが目元に見えるが、目元はぱっちり、唇はきりりとしており、顎はしゅっと締まっている。十分美人だった。水森は、髪をかき上げながら、和人がしていたように、ドアに耳を近づけた。得体のしれないいい匂いが鼻を刺激する。
「いやあ、わりいなあ、やっぱり、伊達で副本部長やってねえな。今度の法事にはありがたいお経をサービスするからよ。サンキュウサンキュウ。断られたら考え直さなくちゃって思っていたところだったぜ、まったく。ところで、話は変わるけどよ、うん」
水森は頬を緩ませた顔を和人に向けるとウインクし、やったね、と右手の親指を立てた。
「どういうことなんですか。昨日の火災の件かなとは思ったんですけど」
人気のない通路で、水森と二人きりであることは、別の意味で和人の緊張度をアップさせた。
水森はゆったりと頬を緩ませた。艶めかしくさえある表情は、消防官のものではない。
「たぶん、監察の件は大丈夫。なくなったと思うわ」
何処に持っていたのか、水森はタオルで髪を拭いている。
「え、な、なしてだすか」
「今、ドアの向こうから聞こえたでしょ。断られたら考え直すとかなんとかって」
「は、はい、でもそれが何か」
「何かじゃあないわよ。頼みごとをして、断られなかったっていうことでしょう。願いは通ったっていうことよ」
「はあ。で、でも、中にいるのって、六文字さんですよね」
「そだよ」
「いったい誰と話をしていたんですか」
「たぶん、副本部長」
「でえっ、なしてですか。なしてタメ口なんですか」頑固ジジイの顔が浮かぶ。
それはね、と水森は意味ありげな艶っぽい笑みを浮かべた。
「六文字さんと副本部長はね、同期生なのよ」
小さい子供に諭すような口調だった。
「げげげ」
和人はただただ驚いた。
「しかも、二人はお寺と檀家の関係でもあるのよ」
口を半開きにしたまま、和人は水森を見つめた。
「どうしてそんなことを知っているのかって言いたいのね。そう、私の実家も檀家なのよ、六文字さんとこの。んで、今年は私の実家が檀家の総代を務めているのよ」
和人の頭の中はこんがらがって来た。
「まあ、あっちの話はまとまったみたいだから、こっちはさっさとご飯にしましょう。行くわよ」
和人は、水森の項に吸い寄せられるようにして後に続いた。
食堂には誰もいなかった。火災の事務処理があるので、皆さっさと済ませたらしい。
和人は、水森と二人でうどんを食べることになった。テーブルを挟んで座った。
桜台消防署の朝食は、各々が玉うどんを自分でゆでて食べることになっているのだ。
「よかったわね、最後にいろいろ経験できて」
はい、と返事はしたものの、緊張していてうどんがどこへ入っているのかわからない。
目の前にいる水森は、女性なのだ。今、二人きりなのだ。
「若いっていいわね、これからいろいろ経験できるんだもんね」
水森は意味深に微笑んだ。
な、何のことを言っているのですかと訊き返したくなるような言い方に、和人の心は舞い上がった。
「でも、命は大事にしなくちゃね」
「はい」
「それと人間関係。これは大事よ」
「はい」
「まだわからないだろうけど、命にかかわることに発展することだってあるんだからね、気をつけなさいよ」
きょとんとしていると、水森は「じれったいから言っちゃうよ」と箸をおいた。
「宿題、あったはずだよね」
「え」
「なぜ知っているのだと驚いているようだけど、あなたは実習生なのよ、署員の関心が集まっているのよ。だから実習生が今、どういう状況でいるのか、何をしているのか、皆が見ているの、情報を共有しているよ」
正直、宿題のことはすっかり頭の中から消えていた。
「隊員が脱出できずに死んでしまった原因はなんだと思う?」水森の声に夏木田の声が重なる。
和人はうう、と唸るしかなかった。
どうしたのよ、と水森。
こうなればもう破れかぶれである。頭の中に残っていることを言うしかない。
「まだ、はっきりしていないっていうことでした」
水森は「そうね」と頷きながら「突然爆燃現象が起こったとの見方もあるようだけど、違うわね。あそこは新鮮な空気が大量に入り込むような状況じゃなかった」と、真剣なまなざしで言った。
和人は「はあ」と相づちを打つだけだ。
ちょっと訊くけど、と水森が色っぽい眼差しで和人を見つめた。和人は見まいと思っていても瞳に引きつけられる。
「人命検索する場合に、筒先を持った者は何に注意しなくてはならないか、知ってるかしら」
上目づかいで見つめられると、どきりとしてしまう。色っぽいのだ。
「う、え、と」急にこんなことを質問されても即答は難しい。
「死んでも筒先を離すな」と和人が言うと、
「対向注水」と言い切られた。
「あ」和人は、ガツンと頭を叩かれた心もちになった。
対向注水とは、字のとおり、対面から注水することだ。
「筒先を持っているからといって、不用意にあちこち注水したら、その辺で活動している隊員に水を浴びせてしまうでしょ。まともに放水を受けたら、それがストレート注水だったら、それこそあっという間にノックアウトよ」
「です」
「延焼中の建物に対する筒先配備の基本は?」
え、と戸惑ったが、今度は思い出した。「側、側、背、です。包囲態勢を敷いて一挙賃圧、です」
「よくできました。炎を建物の正面から迎え撃つのだけではなく、両側面と背後からも放水するのよね」
「はい」
「でね、あの時、進入していた隊の反対側からも、消火と人命検索のために、一隊進入して来ていたのよ。公表されていないけど」
「そうなんですか」水森が何を言いたいのかわからない。
「そうなんですよ。もし、その隊が、向こうに隊員がいるのに放水したとしたら?」
「まともに放水を食らったら、ひっくり返ります、吹っ飛びます」ひっくり返るだけじゃない、吹っ飛んでしまう。どこに飛ぶかわからない。万が一顔面にでも放水されてしまったら、呼吸などできない。
よね、と水森は満足そうに頷いた。
「え、まさか、ホントはそうだったんですか、でも、そうだったとしても、あの事故は仕方がなかったんじゃないですか。煙で視界も悪かっただろうし。それこそ事故ですよね」
「隊長もいないしね」水森は、意味深な言い方をした。
「え、事故じゃなかったんですか」
「そこは今、確認中ということだわ。警察も入って」
「警察? 今頃? なんでですか」
「それなりの情報があったからでしょうね」
「どんな情報ですか」
「ひと言では言えないことよ」
「教えてください」と合掌する。
「まだまだ調査中のことだから、わたしはなんとも言えないわ、まあ、世の中にはいろいろなことがあるっていうことよ、綺麗ごとだけでは成り立たないのよ」
じゃあね、と水森は席を立った。
ここまで言っておきながらおあずけですか、なんなんですか、宿題の答えはなんですかと和人は水森の後姿に問いかける。
和人の思いが通じたかのように水森が振り向いた。
「あのね、進入した隊員の管理がしっかりなされていたら、そんな事故は起こらなかったって言うことよ、どんな理由があっても放任はよくないのよ。何のための管理監督役を置いているのかっていうことなのよ」
じゃあね、と水森は踵を返した。
和人は「ありがとうございます」と頭を下げた。のびてしまったうどんを、黙々と口の中に押し込んだ。
最後のメシだというのに、後味が悪いではないか。どうしてくれるのだ、まったく。
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